NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/25


妙喜庵 待庵(国宝) Myoukian Taian(Kokuhou) 

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 妙喜庵・待庵(みょうきあん・たいあん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある臨済宗東福寺派・豊興山妙喜庵境内に静かに佇ずむ茶室である。
 天正九(1582)年の羽柴秀吉と明智光秀による「山崎の合戦」の際、秀吉が山崎の地に陣を張った折、茶人として知られる千利休を招いて陣中に作らせた茶室が、現在地に移築されたと伝えられている。
 愛知県犬山市の如庵(じょあん)と京都府の大徳寺龍光院にある密庵(みったん)にならび、国宝に指定されている三茶室の一つであり、利休作とされる茶室としては国内唯一のものとされる。
 また、茶室建造物としては日本最古であり、数奇屋建築としての原型かつにじり口を設けた茶室の始まりでもある。
 この待庵が最初といわれる茶室に窓を設けたことなど、利休独特の構想が随所にちりばめられており、窓からさしこむ日差しは、黒ずんだ荒壁仕上げの壁に覆われた重厚な室内をよりいっそう趣ある空間に照らし出している。
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2008/6/25


水口城 Minakuchi-jou 

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 滋賀県の「水口城(みなくちじょう)」は、平安の昔から栄えていた甲賀の地を支配の拠点とする為、天正一三(1585)に羽柴秀吉の命により中村一氏が水口大岡山に城を築いたのがはじまりとされる。
 徳川家康が駿河に移った天正一八(1590)年に増田長盛が、文禄四(1595)年には長束正家へと城主は移り替わるが、その中でも正家は豊臣家の財政を司っていた重要人物であったため、関ヶ原合戦の際に城は攻められ落城してしまう。
 徳川家の直轄地となった水口城は、平城でほぼ正方形の石垣、水堀に囲まれた本丸と東方に東西二〇間、南北一六間の出丸があり、外枡形の様になっていた。本丸は将軍家宿館としての性格をよく表しており、規模の大きい建物で構成され、公的空間と私的空間の二つに分けられていた。御座所も設けられ、これに面した庭園には「御亭」と呼ばれる二階建て望楼風の建物が建つなど、京都二条城を小さくしたような建造物になったという。
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2008/5/22


小谷城 Odani-jou 

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 滋賀県の「小谷城(おだにじょう)」は、諸説あるとされるが、大永四(1524)年頃に初代当主・浅井亮政(あざいすけまさ)が築いた山城である説が有力とされる。
 湖北町と浅井町にまたがる小谷山の自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置、本丸や大広間などが建てられていた。琵琶湖や湖北三郡を一望する事が出来るこの場所は、中世五大山城の一つに挙げられる。
 小谷城は久政、長政と三代まで続いたが、元亀(1570~1573)から天正年間(1573~1591)に亘る騒乱の中で、織田信長に攻められ落城した。そして羽柴秀吉の居城となるが、山城は時代に合わないという理由で長浜城を築城、小谷城は廃城となった。
 小谷山全山に及ぶ城跡の遺構から、当時の面影と共に浅井長政の妻で「戦国一の美女」と賞されたお市の方や、茶々・初・江といった三人の娘達の生涯が偲ばれる。
 昭和一二(1937)年には、国の史跡に指定されている。
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洲本城(三熊城) Sumoto-jou(Mikuma-jou) 

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 兵庫県洲本市の「洲本城(すもとじょう)」は、大永六(1526)年に安宅治興が三熊山に築城した。
 天正九(1581)年、清康に受け継がれていた頃に、織田信長の命による淡路討伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城した。天正一〇(1582)年に仙石秀久が入り、天正一三(1585)年には脇坂安治が城主となる。その際、大修築が行われた。慶長一四(1609)年に安治は伊予大洲へと移封となり、慶長一五(1610)年に池田忠雄が六万三千石で入封した。一時廃城となり忠雄は由良成山城に居城する事になる。そして城は阿波徳島の蜂須賀至鎮の所領となる。寛永一二(1635)年、交通の便の悪かった由良城から拠点を洲本城へ移した。四年をかけて城下町ごとの移転だった為、「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。城代は稲田氏が代々務めた。
 現在、昭和三(1928)年に築造された模擬天守があり、江戸時代のものを復元したものではないが、模擬天守としては日本最古のものである。
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2008/5/20


隈府城(菊池城) Waifu-jou(Kikuchi-jou) 

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 隈府城(わいふじょう)は熊本県菊池市にあった城である。
 正平年間(1346~1369年)、南北朝時代に九州で南朝の中心的存在であった菊地氏が築城したものである。そのため、菊池城ともいわれている。後に菊地家の家老であった隈部親永(くまべちかなが)が城主となった。羽柴秀吉が九州を平定してから、隈部親永は佐々成政(ささなりまさ)の配下となったが、検地に反抗し一揆を企てたため、佐々成政に攻めこまれ城は落城、隈府城は廃城となった。
 現在は、空堀や土塁を残すだけで、本丸跡には明治時代に菊地氏を祀る菊地神社が建立されている。
 境内には資料館が設けられ、この地の歴史を知ることが出来る。また、記念碑も設けられ、広場には菊地武光公の像も建てられている。地元では桜やツツジの名所としても有名な場所である。
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2008/1/17


龍野城 Tatsuno-jou 

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 兵庫県たつの市の「龍野城(たつのじょう)」は、明応八(1499)年に西播磨の豪族・赤松村秀によって鶏籠山の山頂に築かれた。政秀、広貞、広秀と四代続いたが、天正五(1577)年に織田信長の命による播州征伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城、替わって石川光元や蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)が城番として置かれた。
 一時期、姫路城に入城した池田輝政により支城として整備され、その後も本多、小笠原、岡部、京極と城主が替わっていった。万治元(1658)年に京極高知による讃岐丸亀への移転で廃城となり、一四年間は天領となった。
 寛文一二(1672)年、信州飯田から脇坂安政が五万一千石で入封すると、山麓に平山城として陣屋形式のものが築かれ、泰平の世も手伝い現在に至っている。本丸御殿は昭和五四(1979)年に再建されたものである。
 城下町は「播磨の小京都」と称され、武家屋敷の雰囲気は往事を思わせる。
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2007/11/28


宝積寺 三重塔 Housyaku-ji Sanjuu-no-tou 

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 京都郊外に「宝寺」と呼ばれる寺院がある。宝積寺(ほうしゃくじ)だ。聖武天皇が皇子だった時、夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから、いつしかこれが通称となった。宝積寺では、打出は弁財天の、小槌は大黒天のものと伝えられている。
 奈良時代の神亀元(724)年、聖武天皇の勅願で行基が開基したと伝わり、寺が建つ天王山は古くからの要衝であった。本能寺の変で信長を討った明智光秀と羽柴秀吉が衝突した「山崎の戦い」の舞台となり、岡山から急きょ引き返してきた秀吉はここに本陣を敷いた。
 境内には文化財が多く、十一面観音菩薩立像、三重塔などが国の重要文化財に指定されている。
 三重塔は、秀吉が山崎の戦いに勝利した記念にわずか一晩で建立したといわれ、「一夜造りの塔」とも呼ばれている。高さ19・5m、本瓦葺で、塔の内部には四天柱と来迎壁があり、須弥壇(しゅみだん)が設けられ大日如来が安置されている。
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2007/5/11


鳥取城跡(久松城跡) Tottorijoato 

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 鳥取城跡は、鳥取市街を一望できる久松山にある城跡。国指定史跡である。
 鳥取城は、戦国時代中期に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれたことにはじまる。以降、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続した。
 戦国時代には織田信長の部将であった羽柴秀吉と毛利軍との戦いの舞台(鳥取城の兵糧攻め)となったことでも有名。江戸時代には鳥取藩池田家三十二万石の居城となった。
 現在は石垣や魯、内堀跡などが残る。今では戦乱の時代が想像できないほどの静けさで、訪れる人々を和ませてくれる。
 周囲は、桜の名所で知られる久松公園として整備されており、春には花見客で賑わう。
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