NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/10


シュミッツ クリストフ Syumittsu Kurisutofu Dr. Christoph Schmitz

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 漢字学の巨人・白川静氏が構築した白川文字学の研究者で、哲学思想史・日本思想史研究者。ドイツ・ケルン生まれ。東京都在住。
 ドイツと日本の大学で歴史と哲学、哲学史を基礎に日本思想史を学んでいる時に漢字に興味を抱きはじめる。しかし、西洋の漢字教育では、漢字の形とその意味の関係について充分に説明されないことに、落胆。その後、一九九七年、日本の新聞に載った白川静氏のインタビュー記事を読み、「白川先生の偉業や字書を世界に紹介したい」と考え、ドイツの市民大学などで哲学思想史と漢字を教えた後、白川氏訪問のため二〇〇一年に来日、初めて対面する。二〇〇二年、東大法学部に研究生として入学。
 二〇〇三年一二月、白川静著の漢字入門字典『常用字解』の英訳を始め、ほぼ三年かけて完成。漢字の成り立ちを自然に理解できる漢字学習の基礎づくりをめざしている。
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2007/9/19


指宿の鏡池 Ibusuki-no-Kagami-ike Kagamiike Pond in Ibusuki

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 指宿(いぶすき)の鏡池(かがみいけ)は、鹿児島県指宿市開聞仙田にある広さ8ヘクタールのマール式火口湖である。
 マールとは、ドイツのマール湖に由来するマグマ水蒸気爆発による火山地形のひとつで、爆発によって生じた円形の火口の周囲に形成された、地下水面より低所にある水をためた場所の事である。
 池田湖や鰻池に比べると知られていないが、条件が良ければ湖面に薩摩富士とも言われる名峰・開聞岳が映るという隠れた名所となっている。
 鏡池は、今でこそ周囲の大木なども伐られ、水も濁っているが、昭和の初め頃まではその名のとおり、鏡のように澄みきって、開聞岳の姿見であるといわれたほど、山の姿を写した景観は実に神々しかったという。
 指宿の鏡池は、小さいながらも美しい景観を誇る景勝地である。
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2007/7/17


秋田 かまくら Akita Kamakura 

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 冬の秋田の風物詩「かまくら」は、水神様をまつる行事として毎年2月中旬の一週間、「横手の雪まつり」行事の一環として行なわれている。
 雪を積み上げ、中をくり抜いて作った雪室に水神様をまつり、子供たちが中でお餅や甘酒を用意して、「はいってたんせ!甘酒あがってたんせ!」と通る人々に呼びかける。通りかかった人々は中に入って、正面に祀られた水神様にお賽銭を上げて子供たちの供応を受けるという素朴なもの。
 明治30年以降に現在の形になったと言われる「かまくら」は、昭和に入って、来日していたドイツの建築家ブルーノ・タウトが「日本美の再発見」という著書にかまくらの素朴で幻想的な情景を絶賛したことなどから、一層盛んに行なわれるようになったが、その後次第に伝統行事としてのかまくらは廃れ、観光行事としての色合いが強まった。
 最近、伝統的なかまくらの復興を願う声が高まって来ており、様々な試みが地域団体によって展開されてきているという。
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2007/6/5


札幌 手稲山 Sapporo Teine-yama Mt. Teine

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 札幌の手稲山(ていねやま)は、北海道札幌市西区~手稲区に跨る標高1023・7mの山である。
 手稲山は、アイヌ語で長い断崖という意味の「タンネウェンシリ」と言われていたが、和人は近くにあった「テイネイ」という、濡れている所を意味する名から手稲山と名付けた。
 明治以後、鉱山として開発され、最盛期には金・銀・銅・亜鉛・テルルなどの出鉱量は約6万トンにものぼり、東洋一の鉱山と称されたが、やがて縮小・閉鎖された。
 昭和三(1926)年、日本初のスキーヒュッテが建てられた。
 ヒュッテとはドイツ語で「山小屋」の意味で、北海道の山スキー発祥の地と言われる由縁となった。
 昭和五三(1978)年、老朽化のため閉鎖されたが、その後有志により復元新築されている。
 手稲山は、かつては鉱山として、今はスキーで有名な山である。
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2007/5/17


名取美和 NatoriMiwa Miwa Natori

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 東京都生まれ。16歳でドイツに渡り、商業デザインを学んだ後、日本で雑誌編集や広告制作に携わる。続いてヨーロッパへ渡り、日本とヨーロッパを拠点にデザインや撮影コーディネート、通訳などの分野で活動。東京で西洋骨董品店を営んだ後、1997年にタイへ移住。両親をエイズで亡くし、自分たちもHIVに母子感染した孤児たちの生活施設「バーンロムサイ」を1999年に開設。
 その後、オリジナルプロダクツの生産・販売をプロデュース。自身もデザイナーとして活躍。ネット販売と並行し、有名セレクトショップを中心に日本国内での販売を始める。2001年より毎年、施設の子供たちの作品を展示する「アンダー・ザ・ツリー展」を東京で開催。2007年3月、初の直営店「バーンロムサイ鎌倉店」を開店した。
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2007/5/10


磊々峡 Rairai-kyou 

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 磊々峡(らいらいきょう)は、宮城県仙台市太白区秋保町湯元にある渓谷である。
 磊々峡の名は、ドイツ文学者の小宮豊隆(こみやとよたか)によって名付けられた。
 覗橋(のぞきばし)が磊々峡のほぼ真ん中に位置し、この橋を堺に上下約1kmにわたり、深さが20mにも達する渓谷美が続く。
 両岸の秋保石を浸食しながら流れる水が、急流となったり深い淵となったりしていて、変化に富んだ峡谷の風景を描いている。
 覗橋から始まる遊歩道には、奇面巌、八間巌、時雨滝、三筋滝、猪飛巌、天斧巌などの見所があり、その厳しい自然の織り成す不思議な美しさは必見である。
 渓谷沿いの木々の葉が鮮やかな新緑の頃や、紅葉に染まる頃は水面に映え、一段と美しい景観を魅せてくれる。
 磊々峡は、奇岩・峡谷美をたっぷりと堪能出来る心安らぐ場所である。
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金沢箔 Kanazawa-haku Kanazawa Gold Leaf

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 金閣寺、日光東照宮をはじめ、漆工芸、仏壇仏具や織物、久谷焼など、様々な分野で美しい輝きを創造する金沢箔。石川県の金沢は、400年以上の金箔の歴史を持ち、現在は日本一の金箔生産量を誇る。
 江戸時代、江戸や京都以外で箔を作ることは禁止されていたが、加賀藩では藩の工芸振興のために、公にはせず金箔の生産を行っていた。雨や雪の多い金沢の気候が金箔を作ることに適していたことも、金沢箔の発展に貢献した。第一次世界大戦中にドイツが金箔を供給できなくなると、金沢が金箔を輸出。これにより世界的に金沢箔が有名になった。
 箔打ちは、10円硬貨ほどの大きさの金合金を叩いて、畳2枚分の大きさまで伸ばす作業。透かすと向こう側が見えるほどの薄さになっても金の輝きを失うことなく、均一の薄さに仕上げなければならない。この絶妙な匠の技が、多くの文化遺産を現代へと伝える大きな役割を果たしたのである。
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2007/1/28


津久井のくみひも Tsukui-no-kumihimo Tsukui Braid

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 津久井のくみひもは、神奈川県相模原市津久井町にて作られる伝統工芸品である。
 仏教の伝来(538年)と共に経典、数珠などの紐が渡来し、手工芸品として広がって行った。
 明治15(1882)年、ドイツから組紐機が輸入されると、組紐業が産業として成立した。
 津久井は古くから山間部の副業として養蚕が盛んで、家内工業的に生糸や織物を産出していた。
 津久井のくみひもは、大正10(1921)年、佐藤時太郎が東京に創業した工場に津久井の人達が働きに出て、帰村後次々に製紐業を興したのが始まりである。
 優美な津久井のくみひもは、技術的にも高い評価を受けており、現在ではニットの本場、イタリアをはじめ世界に輸出されている。
 津久井のくみひもは、今でも日常的に使用されている、実用的工芸品である。
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