NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/25


御火葬塚 Go-kasou-zuka Gokasozuka (Cremation Mound)

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 御火葬塚(ごかそうづか)は、島根県隠岐郡海士町中里にある、後鳥羽上皇を火葬にして埋葬した場所である。
 鎌倉時代の承久三(1221)年に、承久の乱にて鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流されて海士の源福寺で18年を過ごし、延応元(1239)年、六〇歳で失意のうちに他界した。
 後鳥羽上皇の遺体は源福寺の勝田山で荼毘に付され、遺骨は一部京都に持ち帰られ、他は源福寺北部の丘陵であるこの地に埋葬されて廟殿が建てられた。その山稜が、現在の御火葬塚である。
 隣接地には後鳥羽上皇を祭神として祀る隠岐神社が建っており、神社前の歴史民俗資料館には上皇にちなむ品々が陳列され、承久の変の歴史に触れる事が出来る。
 御火葬塚は、鎌倉の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/5/14


郡上八幡城 Gujohachiman-jo 

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 郡上踊りでも知られる郡上の城は、鎌倉時代の承久三(1221)年、承久の乱の戦功で東胤行が美濃国山田荘の地頭となり、土着したのが起源とされている。永禄二(1559)年東常慶が城主であった時、遠藤盛数に東殿山城を攻められ落城したといわれる。
 東殿山城に入った遠藤盛数は、そこがあまりにも険峻であった為、新しく八幡山に城を築いた。その後、幾多の城主が変わり増築が行われた。城は東殿山南端、標高350メートルの八幡山山頂に天守曲輪を置き、桜の丸・松の丸の郭、山麓に二の丸を構えている。
 青山氏の代に二の丸が本丸とされ、御殿・政庁を置いた。明治維新を迎えた後、天守台・桜の丸・松の丸の石垣はほぼ完全な形で残された。現在の山頂にある模凝天守と隅櫓は昭和八(1933)年に建てられたもので、大垣城に模して作られている。
 八幡山からの景色は、眼前に東殿山が眺められ、往事の戦いのほどが偲ばれる。
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2007/5/8


龍河洞 Ryugatou Ryuga-do Cave

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 高知県三宝山の中腹にある石灰洞穴。秋芳洞、龍泉洞と並んで日本三大鍾乳洞ともいわれる。
 西本洞,中央洞,東本洞の三洞を中心に24本の支洞が複雑に連接した迷宮型の鍾乳洞である。その総延長は、4000mにも達する国内屈指の大鍾乳洞で、この内、1000mが観光洞として公開されている。
 洞の入口には竜王神社があるが、ここは、約770年前の承久の乱(1221年)の後、土佐に配流となった土御門上皇が、この鍾乳洞に入った時、一匹の錦の小蛇が現れたので、その霊を祭ったという伝説がある。
 三宝山の南を流れる谷川が、約60mの落差で洞穴に流れ込み、 洞内では、その流れがつくる大小20の滝が照明に照らし出されている。ここでは、弥生時代の遺跡も発見され、2000年前の弥生式土器(神の壺)も有名である。
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2007/4/24


菩提所観音寺 Bodaisho-kannonji 

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 菩提所観音寺は、広島県広島市安佐北区にある史跡である。
 承久三(1221)年、承久の変で勝利を収めた鎌倉幕府により、戦功のあった熊谷氏は安芸国三入荘の地頭に任ぜられ、この地に城を築いて移り住んできた。
 その後室町期に入ってから、戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えた。
 熊谷氏は、屋敷と根之谷川を挟んで向かい合う位置に、一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。
 菩提所観音寺は大寺院であったが、熊谷氏が広島城下に移ると次第に寂れて行った。
 現在では、二間(約3.6m)四方の小さな観音堂と井戸を残すのみであり、堂内には熊谷氏の紋を刻んだ須弥壇が佇んでいる。
 菩提所観音寺跡は、熊谷氏時代の繁栄と歴史の移り変わりが偲ばれる、静かな史跡である。
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2007/3/7


笠間城 Kasama-jyou 

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 笠間城は茨城県笠間市、佐白山に位置した城である。
 承久元(1219)年、笠間持朝が叔父の下野守護、宇都宮頼綱の命により築城した。
 笠間氏は宇都宮一門として勢力を誇るが、天正十八(1590)年に小田原の役で豊臣秀吉に敵対、豊臣方に味方した同じ宇都宮一門の宇都宮国綱により滅ぼされた。
 戦国時代以降、多くの大名に転封が続いた後、延享四(1747)年から牧野氏が治め、幕末まで続いた。
 関東には珍しい石垣の城であり、山頂には総石垣造りの天守曲輪が現存し、山中のあちらこちらにも石垣が残る。
 城下の真淨寺には八幡櫓が移築されて現存しており、城郭遺構の姿を今に残している。
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2007/1/25


西大寺観音院 Saidai-ji-kannon-in Saidaiji Temple and Kannon'in Temple

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 岡山県の東部を流れる吉井川に架かる永安橋の北に、西大寺観音院がある。千手観音をご本尊とする高野山真言宗別格本山として栄えてきた。
 起こりは今から約1200余年前。宝亀年間(770〜781年)、安隆上人が犀戴寺(さいたいじ)として建立し、承久三(1221)年に西大寺と改められたという。
 社伝の正安元年の焼失時の記載によると、本堂・常行堂・三重堂・鐘楼・経蔵・左右の回廊などが存在していたことが記されており、14世紀初頭にはすでに一定の伽藍を備えた大寺院であることがうかがえる。
 西大寺ではほかに、例年2月の第3土曜日の深夜に行われる「はだか祭り」が有名。吉井川で水垢離(みずごり)をとった裸の男たちが、神木(しんぎ)と称する棒を取り合う行事で、「日本三大奇祭」のひとつに数えられている。
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2007/1/17


高岡大仏 Takaoka-daibutsu Takaoka Giant Buddha Statue

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 「高岡大仏」は、銅器の生産で有名な富山県高岡の銅で作った、町のシンボル的存在である。総高15.58m、その規模から奈良・鎌倉の大仏と並んで日本三大大仏のひとつに数えられている。
 歴史は鎌倉時代、承久三(1221)年に遡る。当時、摂津国(現大阪市、堺市など)の源義勝が越中に渡り、二上山麓に約5メートルの木造大仏を造営したのがはじまりだ。その後、戦国時代に加賀藩二代藩主の前田利長が今の大手町に移し、長年高岡町民に親しまれたという。
 しかし、大火による焼失と再建を繰り返したことから、火事で燃えない大仏を求める声が町民から上がる。そこで明治40年から20余年の歳月をかけて、銅を使用した大仏が昭和8年に完成したのだった。
 鋳造から着色に到るすべての工程を高岡の工人、職人達の手で行い、文字通り町衆の手で造られた大仏は、今でも高岡市民の誇りとして親しまれている。
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2007/1/7


牛突き Ushitsuki Bullfighting in Shimane

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 七八〇年という日本最古の歴史を持つ隠岐の牛突き。1221年の承久の乱の際に隠岐へ流された後鳥羽上皇を慰める為に行われたことが起源とされる。
 かつては島根県・島根半島全域で行われていた牛突きも、今では一部で残っているのみ。8月15日に行われる夏の本場所では、引き分けなしの一本勝負ということもあり、島民の夏場所に賭ける思いは計り知れない。どちらかの牛が逃出すまで、時には一時間近くも勝負が続く。決着後の明暗ははっきりしており、勝った牛のまわりでは男衆たちが牛の背に乗ったり歓喜の声で叫ぶ中、敗者は静かに土俵を去る。
 牛突きは神への奉納として、今もこの島に根付いている。この伝統を守るべく隠岐の若者達は後継者会を発足させ、子供達を小学校3、4年の頃から修行させている。
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