NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/10


障子 Shouji 

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 障子(しょうじ)は、扉や窓に用いられる建具の一つで、明かりを通すように木枠に薄紙を張ったものである。
 元来は、同じような建具である襖(ふすま)も含め、さえぎるものの意味を持つ障子という言葉を用いていたが、閉じたままで採光できるという機能から広く使用されるようになり、襖とは独立する形となった。
 その誕生は平安時代で、襖を元に工夫改良されて出来上がったと推測されている。
 現在のように薄紙を張った、現在の我々が目にする障子は「明かり障子」と呼ばれ、平安時代末期にはすでに存在していたとされる。
 他にも下部にガラスを入れた雪見障子やガラスを板にした腰高障子、一本の溝に二枚の障子を引き違いにした子持ち障子などいろいろな種類が存在する。
 誕生してから千有余年、現代では断熱効果や紫外線カット効果などで障子が見直されつつあり、また、インテリアとしても日本文化の特徴の一つとして、家々に穏やかな明かりと伝統、そして快適さを導いている。
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2008/2/28


城下町 大聖寺 Joukamachi Daisho-ji Castle town,Daishoji

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 石川県加賀市の大聖寺(だいしょうじ)は、加賀百万石の支藩、大聖寺藩の城下町として栄えてきた歴史と伝統文化の息づく町だ。
 江戸時代からの街並みをそのままとどめ、しっとりと落ち着いた雰囲気を漂わせている。錦城山城址のふもとには禅宗、日蓮宗などの古刹が立ち並び、年間を通して史跡めぐりを楽しむ人々が絶えない。
 特に実性院(じっしょういん)は、5月に咲く藤の花の全国的な名所としても知られている。金箔をあしらった障子画も見事だ。また、大聖寺3代藩主の藩邸跡の一部に当たる江沼神社境内にある「長流亭」は、兼六園を模して作庭されたとされ、書院や茶室など、隅々にまで凝らされた意匠が興味深い。この庭園は、国の重要文化財に指定されているという。 
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2008/2/27


敷居 Shikii Shikii

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 敷居(しきい)とは、和室の障子や襖などの建具のレールの役目をしている横木の事である。
 下部にあるのが敷居で、上部にあるのを鴨居(かもい)と言い、この2つは対になっている。
 古語の閾(しきみ)が由来で、障子やふすまなどの建具を受ける溝を彫ったり、レールを付けて引き戸を滑らせる。引き戸の場合には溝を掘り、スライドできるように加工されている。
 強度と滑りやすさが求められ、松が一般的で、他に栂や桜、檜が好んで使われる。
 しかし、最近ではバリアフリーの考え方から、障害者や老人が敷居でつまづいたりしないように床に敷居を埋め込むなどして、ほとんど段差をつけない住宅が増えてきている。
 敷居は、室内空間を隔てる境界としての要素を持つ、日本伝統の建築方法の一種である。
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2007/10/17


青木村 日吉神社 Aoki-mura Hiyoshi-jinja Hiyoshi Shrine in Aoki Village

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 長野県小県郡青木村にある日吉神社(ひよしじんじゃ)は、伝承によると創建は南北朝時代とされている。
 本殿は五間社流造で、階段や脇障子のない見世棚造り。桟瓦葺(さんがわらぶき)を用いており、横に長いシルエットも特徴のひとつ。そして扉口は中央柱間に一つだけという、大変めずらしい型式である。
 平成二(1990)年に長野県の県宝に指定された。
 以前は、朱などの鮮やかな色彩で装飾が施されていたが、現在では素材の木そのものの色となっており、情緒ある静かな佇まいを見せている。
 真っ赤に塗られた鳥居から社地を通り、石段を上りきったところに建立されている社殿は、深森のなかに、まるでオブジェのように建っている。
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2007/8/6


本美濃紙 Hon-mino-shi Hon-Mino Gami (Genuine Mino Paper)

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 本美濃紙(ほんみのし)は、平安末期から鎌倉時代にかけて、中国よりもたらされた製紙技術である。
 良質の茨城県産の那須楮(なすこうぞ)を原料とし、縦ゆりに横ゆりを伴った紙漉き操作による伝統的方法で漉かれた紙を本美濃紙と称する。
 日本に存在する最も古い紙は、正倉院に眠る大宝二(702)年の美濃、筑前、豊前国の戸籍用紙で、中でも本美濃紙による用紙は漉きムラがなく、優れた技術であったことを今に伝えている。
 江戸時代には障子紙として最上と評価、長く親しまれていくこととなる。障子紙は日光に透かされて鑑賞されるため、繊維がムラなく美しく漉き上げられる本美濃紙はまさにうってつけだったのである。
 現在は障子紙を中心として、記録用紙や文化財保存修理用紙などにも用いられ、その質の良さと味わいの深さで多くの人に愛される逸品である。岐阜の本美濃紙保存会が昭和五一(1976)年に重要無形文化財の指定を受け、今もその技術を後世に伝えている。
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2007/1/12


江戸からかみ Edokarakami Edo Karakami Paper

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 江戸からかみは、江戸の町づくりとともに発展し、襖、壁、屏風などを彩るために加工された和紙である。
 からかみの源流は、平安時代に中国からもたらされた美しい文様の紙「紋唐紙(もんからかみ)」であり、それを和紙で模した物が「からかみ」である。
 当初、和歌を筆写する詠草料紙として貴族の間で好まれたが、中世以降には襖や屏風などにも貼られるようになった。
 江戸時代、徳川幕府による江戸の街づくりが進む中で、需要も拡大し独自の発展を遂げた。
 江戸からかみは、木版摺りを重視した「京からかみ」に対し、木版摺りを基調としながらも型紙による捺染や刷毛引きなど多くの技法で作られる。
 その文様は江戸らしく、武家や町人の好みを反映した自由闊達で粋なものであるのが特徴である。
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2006/12/15


適塾 Teki-juku Tekijuku 

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 適塾は蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の天保9年(1838年)に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。
この塾では日本を代表する人物、福沢諭吉、大村益次郎、高松凌雲など、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した。漫画家、手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人であった。
塾は、明治維新後、大坂医学校の開校にあたり、教師・塾生は移籍、その歴史を閉じた。現在は大阪大学医学部であり、日本で一番古くからの医学教育の伝統を継承している。
適塾の建物は現在も適塾管理運営委員会の管轄の下で保存されている。建物の右隣には、緒方洪庵の銅像がある。二階には塾生の部屋があり、その柱には無数の刀傷が残っている。これはおそらく、ここで激論の末にできた傷だと言われており、その時代の人物、背景が伺われる。
昭和39年(1964)国の重要文化財に指定されている。
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2006/11/29


愚陀仏庵 Gudabutsu-an Gudabutsuan 

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 愚陀仏庵は、愛媛県松山市にある夏目漱石ゆかりの史跡。漱石が明治26年(1893年)に英語教師として松山へ赴任した折に下宿、一時期正岡子規が居候していたこともある2階建て住まいだ。現在、市立子規記念博物館と萬翠荘裏に復元・建造されている。
 愚陀仏庵の名付け親は正岡子規。子規の同居時にはここ愚陀仏庵に俳句仲間が集まってにぎわったという。子規が日本派俳句結社「松風会」の会員に日夜、俳句の指導をし、漱石も自らを「愚陀仏」と称して俳句に熱を上げた。当時、文学者として迷いがあった漱石にとって、俳句は格好の自己表現の道標となったのである。
 その後夏目漱石は1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。文豪としての道を歩む。愚蛇仏庵は、漱石にとって創作の原点だったのかもしれない。
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