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御油宿(ごゆじゅく)とは東海道五十三次、三五番目の宿場。現在の愛知県豊川市御油町である。
東海道が制定されたのは、慶長六(1601)年であったが、この年に伝馬朱印状が発行されており、早い時期から宿場として成立していたことが確認されている。
この伝馬朱印状では御油・赤坂で一宿と制定されていたためか、本陣の数も多く最多時で4件、少なかった頃でも2件存在していた。
姫街道(本坂街道の俗称)の分岐点にもなっており、隣の赤坂宿ともに遊興の場としても大いに賑わった。
また、安藤広重の絵には飯盛女が宿泊客の争奪を行っているように描かれているが、東海道の制定後、独立した赤坂宿との距離が約1・7kmと非常に近かったため、互いにすさまじい客引きをしたと伝えられている。
現在「御油の松並木」として街道の松並木が御油宿と赤坂宿の間に残っており、当時の面影を残している。
東海道が制定されたのは、慶長六(1601)年であったが、この年に伝馬朱印状が発行されており、早い時期から宿場として成立していたことが確認されている。
この伝馬朱印状では御油・赤坂で一宿と制定されていたためか、本陣の数も多く最多時で4件、少なかった頃でも2件存在していた。
姫街道(本坂街道の俗称)の分岐点にもなっており、隣の赤坂宿ともに遊興の場としても大いに賑わった。
また、安藤広重の絵には飯盛女が宿泊客の争奪を行っているように描かれているが、東海道の制定後、独立した赤坂宿との距離が約1・7kmと非常に近かったため、互いにすさまじい客引きをしたと伝えられている。
現在「御油の松並木」として街道の松並木が御油宿と赤坂宿の間に残っており、当時の面影を残している。
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