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福井県越前市五分市町の小高い丘にある越前小丸城(えちぜんこまるじょう)。
長篠の合戦において、織田軍の武将として鉄砲隊を率いて活躍した佐々成政(さっさなりまさ)が、信長の命を受け、越前に与力として入った際に築城。わずか4年の居城ののち、越中富山に移ったため、廃城となった。その短い居城期間から、築城が未完成で終わったという説もある。
いまでは、本丸を囲む堀の一部と内部の石垣、道を挟んだ場所に造られた櫓(やぐら)の台とみられる土塁のみが残されている。
僅かな遺構に刻まれた、小丸、北小丸、古城、的場といった文字から、広範囲に城郭設備が整っていて、繁栄していたと想像されている。
佐々成政、不破光治(ふわみつはる)と共に織田信長の「府中三人衆」と呼ばれた前田利家(まえだとしいえ)が、越前国の一向一揆を鎮圧した様子を記した文字瓦が、昭和七(1932)年、掘削中の城の石垣から見つかったことでも有名である。
長篠の合戦において、織田軍の武将として鉄砲隊を率いて活躍した佐々成政(さっさなりまさ)が、信長の命を受け、越前に与力として入った際に築城。わずか4年の居城ののち、越中富山に移ったため、廃城となった。その短い居城期間から、築城が未完成で終わったという説もある。
いまでは、本丸を囲む堀の一部と内部の石垣、道を挟んだ場所に造られた櫓(やぐら)の台とみられる土塁のみが残されている。
僅かな遺構に刻まれた、小丸、北小丸、古城、的場といった文字から、広範囲に城郭設備が整っていて、繁栄していたと想像されている。
佐々成政、不破光治(ふわみつはる)と共に織田信長の「府中三人衆」と呼ばれた前田利家(まえだとしいえ)が、越前国の一向一揆を鎮圧した様子を記した文字瓦が、昭和七(1932)年、掘削中の城の石垣から見つかったことでも有名である。
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