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2008/8/28


志貴毘沙門天大祭 Shiki-bishamon-ten-taisai 

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 「棚尾(たなお)の毘沙門(びしゃもん)さん」という名でも親しまれている志貴(しき)毘沙門天。その毘沙門堂は妙福寺境内にある。
 妙福寺は仁寿元(八五一)年、時の荘官志貴左衛門藤原周亮によって建てられた。その時奉祀したのが、周亮が大切にしてきた聖徳太子が造られたという日本三体毘沙門のうちの一体の神像であったとされる。
 一年に三回、一月・四月・一一月の三日に開かれる縁日は「毘沙門さん」と呼ばれ、商売繁盛・家内安全を願う参詣者達で賑わっているが、四月と一一月には特に大きな、毘沙門天大祭(たいさい)が行われる。この時は各種露天が並び、さらに多くの参詣者が集う。
 中でも地元の民話にも登場する「毘沙門さん」のおみくじは、「蟒蛇(うわばみ)」から身を守ったほど力があると伝わるため、ご利益を願う人々に人気である。
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2008/7/28


湛慶 Tankei 

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 湛慶(たんけい)は、鎌倉時代の仏師で、東大寺金剛力士像造仏で著名な仏師、運慶の嫡男である。
 承安三(1173)年~建長八(1256)年とされるが、没年には諸説ある。
 祖父の康慶が興した平安末期にはじまる仏師の一派「慶派」に属し、父である運慶や同じく仏師として知られる快慶と並ぶ大家として知られている。
 運慶工房の一員として、東大寺や興福寺の復興造像に携わり、運慶が没するまで、さながら父子二人三脚で隆盛を極めていくこととなる。
 父の没後は工房の後継者として活動し、生命感あふれるたくましい表現の「運慶様式」を引き継ぎつつ、さらに洗練された温和な作風の作品を生み出してその独自性を高めていくが、建長八(1256)年、東大寺講堂の復興造像における中尊千手観音像の造像半ばで没する。
 代表作としては、京都の妙法院・三十三間堂本尊の木造千手観音坐像や高知県の雪蹊寺にある木造毘沙門天及び両脇侍立像がある。
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2008/7/2


信貴山縁起絵巻 Shigisanengi-emaki 

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 信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)は、奈良県奈良市登大路町の奈良国立博物館に保管されている絵巻物である。国宝に指定されている。
 10世紀初頭、奈良県生駒郡にある標高437mの信貴山にこもって毘沙門天を祀り、その功徳によって奇跡を行った修行僧・命蓮(みょうれん)にまつわる、山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の全3巻の絵巻物で、12世紀、平安時代に制作されたとされる。
 源氏物語絵巻、鳥獣人物戯画、伴大納言絵詞と並ぶ四大絵巻物の1つと称され、信貴山にある信貴山真言宗総本山・朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)が所蔵し、奈良国立博物館が保管している。
 絵は、抑揚のある線で人物の表情や動作を生き生きと描き、描線を生かした彩色が施されている。
 信貴山縁起絵巻は、絵巻の傑作とされる貴重な絵巻物である。
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2008/6/12


曹源寺(かっぱ寺) Sougen-ji 

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 曹源寺(そうげんじ)は、東京都台東区松が谷にある曹同宗の寺である。本尊は釈迦牟尼佛。別名・かっぱ寺(かっぱでら)とも言われている。
 天正一六(1588)年、用山元照大和尚が開山し、明暦三(1657)年の振袖火事で焼失して、現在地に移転した。
 文化年間(1804~1817)に、当地の住人で雨合羽商の合羽屋喜八という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で、雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。
 そこで、喜八が私財を投じて排水のための掘割工事にとりかかると、かつて喜八に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、掘割工事が完成したという。
 文化一一(1819)年、合羽屋喜八が葬られた。
 曹源寺は、出世地蔵と毘沙門天、河童大明神が祀られている、水難除けで知られる寺である。
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2008/5/23


善国寺 Zenkoku-ji 

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 善国寺(ぜんこくじ)は、東京都新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺である。本尊は毘沙門天。
 文禄四(1595)年、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけ、池上本門寺一二代住職・日惺上人(にっせいしょうにん)が池上本門寺の末寺として開山し、現在の麹町六丁目に創建された。
 寛文一〇(1670)年に火災に遭った際、替地(他の場所へ強制的に移転させられること)を命ぜられたが、幕臣の岩本内膳正(いわもとないぜんのかみ)の祈願が聞きいれられて沙汰やみとなった事から、内膳正が中興開基とされる。
 寛政四(1792)年、再び類焼したために境内地が火除地として召しあげられ、替地として翌年、現在地に移転した。
 朱の御堂にある毘沙門天は、家康が江戸入国の折、日惺上人が天下泰平の祈りを込めて幾多の災禍も免れた尊像で、新宿七福神のひとつであり、「神楽坂の毘沙門天さん」として知られている。
 善国寺は、毘沙門天で有名な厄除け、難除けで名高い寺である。
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2008/4/22


毘沙門天 Bishamon-ten 

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 毘沙門天(びしゃもんてん)は、元々はインド古代神話の神だ。
 仏教においては持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられ、中でも最強の神として知られている。
 梵名であるヴァイシュラヴァナの読みからビシャモンと音写され、毘沙門の漢字が当てられた。
 また、その梵名が「よく聞く所の者」という意味もあることから多聞天(たもんてん)の名でも呼ばれており、四天王の一尊として安置する場合は多聞天、独尊像の場合は毘沙門天と呼ばれる。
 その姿は頭には冠、右手には宝棒、左手には経文を納めた塔を持っている。また、武神の名にふさわしく鎧を着込んでいるのも特徴である。
 日本においては聖徳太子が戦勝を祈願して四天王像を祀ったことから、古来より戦勝護国の神として、武士たちの信仰を集めた。
 七福神の一人としても知られており、戦いや勝運にご利益があるとされている。また、幸福の神である吉祥天を妻としていることから福徳を与える神でもある。
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2008/3/7


知多 平泉寺 Chita Heisen-ji 

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 知多半島の阿久比町にあるのが、知多四国霊場一六番である平泉寺(へいせんじ)である。天長七(830)年、淳和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建したと伝えられる。
 本尊は不動明王で、尾張不動尊として信仰を集めている。不動明王立像と毘沙門天立像は中心一木造り彫眼の像で、県指定文化財に指定されている。また、阿弥陀如来像は仁平三(1153)年の在銘仏で県下最古のものとなり、同じく県指定の文化財になっている。
 文治元(1190)年旧暦八月一五日に、源頼朝が野間の里(美浜町)にある父・義朝の墓参りのあと、尾張不動尊に国家安泰などを祈願したといわれる。
 そして墓参りの帰り道、中秋の名月が美しかったので、坊内を大乗坊から円月坊と呼ぶよう命じたと伝えられている。
 

 
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2008/2/7


今熊野観音寺 Imakumano-kannon-ji 

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 西国三十三所観音霊場の第一五番札所の今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)は、京都府京都市にある泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭(たっちゅう)で知られる。
 平安時代初期、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が創建したと伝えられている。
 本堂にあるご本尊は、弘法大師が自ら彫刻したと伝えられている十一面観世音菩薩で、弘法大師が東寺で修行中、山中で熊野権現の化身である翁に出会い、その翁より一寸八分の観音像を授り、体内仏として安置したといわれている。
 脇仏は不動明王と毘沙門天で、本尊と共に信仰を集めている。文暦元(1234)年、後堀河上皇をこの寺に葬り、代々の朝廷の崇敬を得ていた。
 応保元(1616)年、後白河法皇の熊野勧請以来繁栄したが、応仁の乱のときに荒廃した。その後、正徳年間(1711~1716)に勧進復興された。後白河法皇の病気治癒の伝説から、中風や頭痛平癒にご利益があるといわれている。
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