NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/17


龍野城 Tatsuno-jou 

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 兵庫県たつの市の「龍野城(たつのじょう)」は、明応八(1499)年に西播磨の豪族・赤松村秀によって鶏籠山の山頂に築かれた。政秀、広貞、広秀と四代続いたが、天正五(1577)年に織田信長の命による播州征伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城、替わって石川光元や蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)が城番として置かれた。
 一時期、姫路城に入城した池田輝政により支城として整備され、その後も本多、小笠原、岡部、京極と城主が替わっていった。万治元(1658)年に京極高知による讃岐丸亀への移転で廃城となり、一四年間は天領となった。
 寛文一二(1672)年、信州飯田から脇坂安政が五万一千石で入封すると、山麓に平山城として陣屋形式のものが築かれ、泰平の世も手伝い現在に至っている。本丸御殿は昭和五四(1979)年に再建されたものである。
 城下町は「播磨の小京都」と称され、武家屋敷の雰囲気は往事を思わせる。
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2007/11/5


麟鳳閣 Rinpou-kaku 

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 伊予国大洲(おおず)を中心に広く支配した大洲藩。
 初代藩主・加藤貞泰の死後、二代目藩主泰興(やすおき)の弟・直泰は一万石を相続し新谷藩(にいやはん)を成立。そこに評議所、謁見所(えっけんじょ)として陣屋を置いた。寛永一九(1642)年のことである。以来九代二三〇年にわたって存続したという。
 その陣屋跡が現存する「麟鳳閣(りんぽうかく)」は、明治以降は学校の敷地となり、建物は校舎としても利用された。
 長い歴史を感じさせる建物は、現在では県指定文化財となっており、新谷小学校の施設として管理されている。
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2007/10/17


東近江 最上踊り Higashi-oumi Mogami-odori The Mogami Odori Dance in Higashiomi City

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 東近江市は市町村合併に伴い、豊かで多様な伝統文化が受け継がれる町として知られている。「最上踊り(もがみおどり)」もこの地に受け継がれる貴重な民俗芸能のひとつである。
 最上踊りは平安末期から中世にかけて流行した芸能、風流(ふりゅう)の中の小歌踊りに分類される踊りであるとされ、素朴な中にも優雅さが感じられる踊りである。
 出羽国の名族最上家は、家臣間の派閥争いの結果、元和八(1622)年に所領没収となった。その後山形から近江に移され、この地に大森陣屋を構えることとなった。その前で、領民が藩の繁栄を願って披露した唄や踊りが、最上踊りと名づけられ、この地に三〇〇年以上伝わるようになったといわれている。
 現在では保存会が結成され、最上家ゆかりの地である山形でも披露されることがあるという。
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2007/9/28


羽村の堰 Hamura-no-seki 

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 多摩川にかかり、東京の羽村市から新宿区にまで生活用水を運ぶ玉川上水。その玉川上水の出発点となるのが、羽村の堰(はむらのせき)である。
 江戸時代の生活用水不足から新しい水道を作る必要に迫られ、承応二(1653)年、庄右衛門(しょうえもん)と清右衛門(せいえもん)の玉川兄弟によって玉川上水の工事が始まる。その際、多摩川を堰き止め、水を導き入れる役割を果たす堰として建設されたものだ。
 固定堰と、堰止めを解除できる投渡堰(なげわたしぜき)の二つで構成されており、現在もこの二つの仕組みを利用している。
 周辺は整備され、江戸時代に上水の管理を行っていた陣屋の門が移築されるなど、周辺住民の憩いの場所にもなっている。
 また、堰周辺から玉川上水べりにおよそ五百本の桜の木が植えられ、シーズンともなれば多くの人が繰り出し、咲き誇る桜と水の流れの調和を楽しんでいる。
 江戸時代からの水の歴史とその偉業を今に伝えながら、堰は今も水と共に人々の心を潤している。
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2007/9/14


宮崎 幸福神社 Miyazaki Koufuku-jinja Kofuku Shrine in Miyazaki

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 日向市にある「幸福神社(こうふくじんじゃ)」は、富高陣屋の鎮守稲荷として、安永五(1776)年正月に伏見の正一位稲荷五社大名神の分霊を祀ったとされる。富高陣屋は、日向天領を治めた日田代官所の出張所であった。揖斐富治郎(いびとみじろう)代官はその陣屋の鬼門除けとして、この神社を勧請したとされる。
 後の明治元年、町内の天神社その他の社を合わせ、大国主神(おおくにぬし)、事代主神(ことしろぬし)、宇迦之御魂神(うかのみたま)、少名彦神(すくなひこのかみ)、岩永姫命(いわながひめのみこと)、菅原道実公を合祀した。
 食物の神であり農耕農作の神である稲荷を幸とし、大国主神は福の神であることから福として、幸福神社と名づけたと伝えられている。
 神社の境内には、樹齢百十数年といわれる珍しい夫婦楠がそびえ立ち、神社の名に相応しいシンボルともなっている。その名前にあやかり、幸せを願う参拝者が多く訪れる。
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2007/8/29


十根川神社 Tonegawa-jinja 

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 平家落人伝説の村、宮崎県椎葉村。ここに十根川神社(とねがわじんじゃ)がある。元久元(1204)年創建といわれ、源平合戦後の当時、平家討伐のためこの地を訪れた那須与一の弟、那須大八郎宗久の陣屋跡と伝えられる。
 出雲大社の分祀として大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られ、大八郎が着用した鎧や納めた鏡が残されている。
 明治になるまで十根川神社は八村大明神と呼ばれ、境内には大八郎が植えたといわれる「八村杉(やむらすぎ)」がある。樹齢約800年、樹高約55メートル、根まわり約19メートルもある巨大な杉が、栄枯盛衰を見つめながら大きくそびえ立っている。
 源頼朝から椎葉の平家落人の追討を命じられた大八郎が目にしたものは、ひっそりと暮らす平家一門の姿だった。大八郎は追討を断念し、鎌倉に帰らずこの地に屋敷を構え、平家の守り神である厳島神社を建てるなど彼らを支えたという。
 
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2007/6/26


松前藩戸切地陣屋跡 Matsumae-han-hekirichi-jinya-ato 

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 松前藩戸切地(へきりち)陣屋跡は、江戸時代に蝦夷地の防衛を強化する目的で、幕府が安政二(1855)年に松前藩に命じて作らせた陣屋の跡地である。北海道北斗市に所在する。
 この陣屋は、四陵の星型をしており、東側の一陵に砲台六門を擁していた。明治元(1868)年には函館戦争の旧幕府軍の攻撃に遭い、松前藩兵の手により自焼、放棄されている。その後昭和五四年から国や道の保護を受けて環境保護を行い、平成十三年に再建。現在では市民の憩いの場として親しまれている。
 陣屋に続く長い道路には桜が植えられており、春の満開時には桜のトンネルとしてたくさんの人々の目を楽しませている。
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2007/6/18


仙台藩白老元陣屋跡 Sendaihan-Shiraoi-motokonya-ato The Former Site of the Sendai Clan Manor House

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 幕末に、200年近くにわたって続けてきた鎖国政策を終わらせ、開国へと転換した日本。
 そんな中、ロシアの南下政策に警戒感を抱いた幕府は、仙台藩をはじめとする東北諸藩に蝦夷地、今の北海道の警護を命じる。
 そこで、安政三年(1856)仙台藩が北海道白老町に築いたのが、白老元陣屋だ。
 仙台藩の守備範囲は広く、白老から北方領土である国後、択捉まで実に蝦夷地の3分の1にも及び、この白老元陣屋がそれら警護の中心となった。
 陣屋跡としては道内でも最大規模を誇り、建設時に一緒に植えられた松や、土塁、塀の一部などが今もそのまま残されている。
 近くには仙台藩白老元陣屋資料館もあり、この陣屋や、蝦夷地警護の歴史などをつぶさに知ることが出来る。
 今は史跡公園として整備されているが、幕末の揺れ動く日本を駆け抜けた、仙台藩士たちの息吹の残る地として、訪れる人の絶えない場所である。
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