尾戸焼(能茶山焼) Odo-yaki (Nousayama-yaki)
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尾戸焼(おどやき)は能茶山焼(のうさやまやき)ともいい、承応2(1853)年藩主山内忠義公の命により、大阪摂津の陶工久野正伯(くのせいはく)を招いて、高知城近辺に開窯。原土は能茶山より採取し、作陶が始まった。
尾戸(現在の小津町)で焼かれていたので、尾戸焼と呼ばれていたが、文政3(1820)年に能茶山に移窯。その後、能茶山焼と呼ばれ現在に至る。
現代は水簸(すいひ・水で粘土を篩にかける)で精製、主としてその土で作陶する。雲鶴、松竹梅等の絵を呉須(ごす・陶磁器に用いる顔料の一種)で克明に描き、花瓶、徳利、茶碗などを作り上げている。尾戸焼の特徴でもある丹精な薄作りの作風は現在でも伝承されている。
作品は白上がりの陶器で、色絵薩摩の素地に似て細かな貫入が入り、薄作りのため軽い。
尾戸(現在の小津町)で焼かれていたので、尾戸焼と呼ばれていたが、文政3(1820)年に能茶山に移窯。その後、能茶山焼と呼ばれ現在に至る。
現代は水簸(すいひ・水で粘土を篩にかける)で精製、主としてその土で作陶する。雲鶴、松竹梅等の絵を呉須(ごす・陶磁器に用いる顔料の一種)で克明に描き、花瓶、徳利、茶碗などを作り上げている。尾戸焼の特徴でもある丹精な薄作りの作風は現在でも伝承されている。
作品は白上がりの陶器で、色絵薩摩の素地に似て細かな貫入が入り、薄作りのため軽い。
- 住所
- 高知県高知市
- 名前
- 尾戸焼(能茶山焼)