NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/9


江戸刺繍 Edoshisyuu 

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 日本で刺繍が行われるようになったのは飛鳥時代のこと。中国から仏教が伝来し、金銅仏と並び刺繍による仏像、いわゆる繍仏(しゅうぶつ)が多数作られたのが始まりである。
 平安時代、公家社会が発達するにつれ、男子の束帯や女性の十二単衣(ひとえ)などの衣類に刺繍が登場し、安土桃山時代になると染めに刺繍を入れた相互性刺繍が多くなり、更に、装飾性を増していくようになる。
 江戸時代中期、天下太平の下で経済力をつけた町民階級が台頭し、あらゆる染色技術に刺繍も加えて絢爛豪華な着物を次々と生みだした。
 江戸の繁栄とともに江戸刺繍は隆盛を続け、当時、刺繍職人は繍箔師(ぬいはくし).縫物師(ぬいものし)とよばれた。
 江戸刺繍は図柄を置くときに空間を楽しむような刺繍の入れ方をするのが特色である。
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2008/7/30


緑青色(ロクショウイロ) Rokushou-iro 

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 緑青色(ろくしょういろ)とは、色彩の種類の一つで、日本に昔から伝わる伝統色である。
 仏教伝来とともに中国から伝わった顔料で、孔雀石の粉末に水を加えて強く研ぎ、上層に浮き上がる細かい粒子を白緑、中層にたまる粒子を中緑、下層にたまるものを緑青と言う。
 岩絵具の顔料であり、昔から日本画の緑色として欠かせないものであった。
 また、古代から人工的に銅や青銅を酸化させて、表面にできる緑色の錆から採取する製法も存在する。成分はいずれも、炭酸銅と水銀化銅の混合物である。
 古来、絵画の緑色絵の具の代表的なもので、彫刻や建築などの塗装などにも広く用いられてきた。
 落ち着いた感じのする、日本に古来より伝わるくすんだ青緑である。
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2008/5/20


彼岸 Higan 

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 彼岸(ひがん)とは、季節の移り変わりを把握するために設けられた雑節の一つで、春分と秋分それぞれを中日として、前後三日間を合わせた七日間が該当する。また、仏教行事である「彼岸会」(ひがんえ)のことも表す。
 最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「はしりくち」と呼び、仏教における、煩悩を脱した悟りの境地を表すもので、煩悩や迷いに満ちたこの世は「此岸」(しがん)と呼び、その対岸にあたる場所である。
 元々は中国から伝わったもので、中国では彼岸と此岸の関係から、日々の行いを律する戒めのようなものであったが、日本に伝来してから、いつのまにか法要を営み、祖先を祀る行事へと変化したとされ、日本においては大同元(806)年に初めて、彼岸会が催されたといわれている。
 お彼岸で供えられるぼた餅やおはぎは、春の牡丹と秋の萩に由来しているという。
 お盆にしか帰えれないご先祖様にとっては、夏以外の季節を感じられる各別のお供え物になるに違いない。
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2008/5/2


爪楊枝 Tsuma-youji 

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 爪楊枝(つまようじ)は、主に歯を清潔に保つために用いられる先の尖っている、あまり長くない木製の細い棒である。
 古来では楊柳(ようりゅう)が素材として用いられていた為、楊枝と呼ばれ、先端を意味する爪が付くようになったといわれる。
 現在では、国内においては白樺(しらかば)が原材料として多く用いられ、近年では、合成樹脂などの製品も見られる。
 その起源は定かでないが、一〇万年前のネアンデルタール人の歯の化石から、楊枝のようなものを使用した痕跡が見つかっているという。
 日本には、奈良時代に仏教が伝来した際に伝わったといわれ、先端を硬いもので砕き、毛筆状にして歯ブラシのように使用する房楊枝(ふさようじ)と、先端を尖らせたものと二種類あったという。
 繰り返し使用することを前提にした高級品などが世界中に存在し、日本では末端を「こけし」に似せ、凹凸の飾りが付けられていることが多いという。
 一本あれば何かと重宝する、食卓における名脇役である。
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2008/4/22


地蔵菩薩 Jizou-bosatsu Jizou Bosatsu

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 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教における菩薩の一人である。
 サンスクリット語での仏の名を表す梵名(ぼんめい)、クシティガルバが大地の母胎という意味を持つことから、地蔵という名が付けられたという。
 その姿は、剃髪で袈裟を身につけており、右手に錫杖、左手には宝珠を持っている。
 釈迦の入滅後、五六億七千万年後に弥勒菩薩が出現するまでの仏が不在の間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩として信仰されている。そのため、六道それぞれの地蔵菩薩を並べて祀った「六地蔵像」を日本各地で見ることが出来る。
 日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、地蔵菩薩に対する信仰も広がっていき、その後、六地蔵信仰が全国的に広まり、古来より日本にあった道祖神とも習合し、今に至っている。
 菩薩は本来なら如来に次ぐ高い見地の仏だが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」としてその地位を退き、六道を自らの足で行脚しながら、衆生の魂を救う旅を続けているという。
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2008/4/15


瓦 Kawara Kawara Roofing Tile

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 瓦(かわら)は、粘土を練って成形、焼成した屋根に葺く陶器製建材である。
 瓦が歴史上、初めて登場するのは約二千八百年前の中国といわれており、日本には崇峻天皇元(588)年、百済から仏教と共に伝来し、飛鳥寺造営の際、初めて使用されたとされる。
 当時は瓦葺が許された建物は寺院のみであったが、奈良時代に入るとその他の建物でも使用されるようになる。
 江戸時代には新しい瓦の構造が発明され、また、火事対策の耐火建築用品として瓦の使用が奨励されたこともあり、一般に広く普及していくこととなった。
 日本では大きく分けて釉薬を使った「釉薬瓦」と、燻して銀色の炭素膜を形成した「いぶし瓦」に二分されるが、形状については多種多様なものが存在しており、分類すると千を越える種類が存在している。
 現在では、愛知の三州瓦、兵庫の淡路瓦、島根の石州瓦が三大産地として知られており、日本家屋における屋根の代表格の座を支え続けている。
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2008/4/11


法然 Hounen 

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 法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶。浄土宗の開祖。
 長承二(1133)年、美作国久米(現・岡山県)に誕生。
 9歳の頃、押領使だった父が殺され、住職だった叔父・観覚のもとに身を寄せ、仏教を体得。6年後、単身比叡山へ。源光・皇円・叡空などの師匠に才能を絶賛される。黒谷青竜寺への隠遁を許され、修行を積む。
 43歳の頃、唐の善導大師の『観経疏』によって、「阿弥陀如来の誓い=本願念仏」を辿り着き、承安五(1175)年に、当時としては革新的で独自性に満ちた教説を持つ、浄土宗を開いた。
 碩学の僧、聴衆300人を集め、浄土法門を論じ合った「大原問答」が有名。65歳で著した『選択本願念仏集』は、現在でも経典と同様の扱いで読み継がれている。
 晩年は、激しい弾圧、流罪などに見舞われた。80歳で往生。
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2008/2/1


世阿弥 Zeami Zeami

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 世阿弥(ぜあみ)は、室町時代初期の猿楽師である。実名は、元清。
 貞治二(1363)年、大和猿楽の有力な役者であった観阿弥の子として生まれる。幼名は、鬼夜叉。通称は三郎。
 12歳の時、観阿弥が今熊野で行った猿楽能に出演し、当時18歳の3代将軍足利義満に気にいられ、以後庇護を受ける。連歌師でもあった摂政二条良基から藤若という名を賜るなど、武家や貴族の文化に触れつつ自らの美意識を昇華させ、父観阿弥とともに能を大成させた。父の死後、観世太夫を受け継ぐ。世阿弥という名は、仏教の教派の一つである時宗の法名である世阿弥陀仏からきている。
 『風姿花伝』『花鏡』など多くの伝書を残し、「秘すれば花」に代表される美学は、600年を経た今でも鮮烈な輝きをもっている。
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