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2007/12/25


小泉八雲旧居 Koizumiyakumo-Kyuukyo Lafcadio Hearn’s Old Residence

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 「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名な小泉八雲が、松江の侍の娘セツと結婚し、明治二四(1891)年の五月から一一月までの半年間の新婚生活を過ごした家を、「小泉八雲旧居(こいずみやくもきゅうきょ)」または「ヘルン旧居」として今も姿を変えることなく保存されている。
 ヘルンというのは八雲が日本に帰化する前の名前、ラフカディオ・ハーンの姓ハーンをローマ字読みにしたもので、八雲がとても気に入って定着させた名前だという。
 旧居の建物は、享保年間(1716~1735)に松江藩士の屋敷として建てられたもので、八雲が武家屋敷に住むことを熱望して当時空家だったこの建物を借りたと伝えられている。
 この家の中央にある、三方に庭が見える部屋を特に好み、この部屋からの庭の眺めを楽しんでいたとされ、著書「知られぬ日本の面影」にも登場するという。
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2007/12/3


文様 矢絣 Monyou Ya-gasuri 

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 矢絣(やがすり)とは、矢の文様を織り出した絣を指し、矢筈(やはず)とも呼ばれ、絣柄のひとつである。他に染め物などでも見ることができる。
 たて糸を段に染め、少しずつずらして矢羽根状になるように織られており、大きい矢絣は若向き、細かいものは年配向きとして、派手な文様から落ち着いた文様まで様々な柄がある。
 非常に古くから使われている文様で、江戸時代には射た矢が戻ってこないことになぞらえ、結婚の際に矢絣の着物を持たせると出戻ることがないと縁起柄ともされていた。
 明治から大正、昭和初期にかけては女学生の制服としても愛用され、今でも卒業式などで時折見られる矢絣の袴姿に、その面影を見ることができる。
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2007/11/26


あきる野 広徳寺 Akiruno Koutoku-ji 

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 広徳寺(こうとくじ)は、東京都あきる野市を流れる秋川の南岸、秋川丘陵の麓に位置する寺で、鎌倉五山建長寺の末寺でもある。
 明徳年間(1390~1394)に、この地域の長者の妻が開基、応永十(1403)年に建長寺の住職により開山された。
 天文年間(1532~1555)には北条氏康により再興され、今も客殿には北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の各位牌が安置されている。
 室町建築の面影を残す茅葺の山門をくぐるとまずは参道を挟んで聳え立つ二本のイチョウの木が出迎えてくれる。季節が訪れれば、見事な紅葉を楽しませてくれる。
 江戸時代には一万二千坪もあり、その全体が都の指定史跡になっているという広い境内には大きなカヤとタラウヨがあり、格式ある本堂など、禅宗の伽藍との見事な調和を見せてくれる。
 都の天然記念物にもなっているタラウヨの葉の裏には文字が書けるため、今では葉の一枚一枚に参拝客の願い事が書き込まれ、願掛けの木のように親しまれている。
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2007/11/5


河後森城跡 Kagomori-jo-seki 

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 「河後森城跡(かわごもりしろあと)」と書かれた大きな石碑が立つ登山道入り口。そこから自然散策をしつつ、中世の歴史を残す城跡を見てまわることができる。また山頂からの素晴らしい展望も見物である。
 河後森城跡は伊予と土佐の国境におかれ、1997年に国の史跡に指定された、指定面積二〇二・〇三八平方メートルという県下最大級の中世城郭跡である。
 鎌倉時代から江戸時代初期まで、約四〇〇年あまりに渡ってこの地域を支配した宇和郡領主・西園寺氏の旗本、河原淵(かわらぶち)氏の豪壮な居城跡。戦国時代には長宗我部(ちょうそかべ)軍勢と戦った古戦場でもあるという。
 城郭内からは当時の面影を残す沢山の貴重な遺構や、当時中国から運ばれた陶磁器、国産の備前焼の壷、多くの瓦など、遺物が多数出土しており、現在も発掘調査や整備が続けられている。
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2007/10/31


三ツ畑田島 Mitsuhatada-jima Mitsuhatadajima Islands

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 三ツ畑田島(みつはただじま)は、愛媛県南宇和郡愛南町魚神山~平碆の宇和海沖に浮かぶ、3つの小さな島である。
 足摺宇和海(あしずりうわかい)国立公園内にある代表的な景観のひとつで、高さ140mほどの小島が並び、周辺の海底には多種多彩なテーブルサンゴの群生が存在している。
 非常に澄んだ水の下には色鮮やかな数多くの熱帯魚が泳ぎ、海の花畑となっている。 夕景の眺めはひときわ美しく、どこまでも静かな黄金の水面に3つの島影が映り、幻想的でゆったりとした時間が流れる。
 三ツ畑田島は、愛媛・宇和海の面影を象徴する景観である。
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渡月橋 Togetsu-kyou 

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 「渡月橋(とげつきょう)」は、京都嵐山の桂川に架かる、全長一五五メートルの橋である。
 別名「嵐橋」とも呼ばれるこの橋は、承和三(836)年、弘法大師の弟子である道昌(どうしょう)が、大堰川(おおいがわ)修復のとき架橋したものである。
 亀山上皇が、曇ひとつない夜空に、まるで月が橋を渡るかのような風景をみて「くまなき月の渡るに似る」とひと言もらしたことから「渡月橋」の名がついたといわれている。
 この橋は、応仁の乱での焼失や洪水などで幾度か再建されたが、慶長一一(1606)年に角倉了以(すみのくらりょうい)によって現在の位置に架けかえられた。
 現在の橋は昭和九(1934)年に鉄橋として改修されたものだが、橋の欄干(らんかん)や桁隠しやは木製を使い、昔の面影を今に伝えている。
 渡月橋の南には、桜の名所で全国的に有名な標高三七五メートルの嵐山がある。お花見や新緑、紅葉や雪景色など、まさに四季折々の素晴らしい景観が楽しめる場所である。

 
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2007/10/23


谷中霊園 Yanaka-reien 

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 谷中霊園(やなかれいえん)は、東京都台東区谷中にある約10万平方mの都立霊園である。旧称を谷中墓地といい、東京の三大霊園の一つとされる。
 明治七(1874)年、谷中天王寺と寛永寺の敷地を東京市が引き継ぎ、谷中墓地として開設した。
 園内には、長谷川一夫、横山大観、徳川慶喜、鳩山一郎など、多くの著名人が眠り、幸田露伴(こうだろはん)の小説で有名な谷中天王寺の五重塔跡も存在する。 五重塔跡付近には、駐在所と児童公園がある。
 霊園の中央を通る通称「さくら通り」は、春にはまるで桜のトンネルのようにもなる、桜の名所としても知られている。
 周辺は昔ながらの下町の面影を残した地域であり、多くの人が霊園やその周辺の散策に訪れる。
 谷中霊園は、多くの著名人が眠る、7000基以上の墓が建っている霊園である。
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2007/10/11


因幡三山 Inabasanzan Inabasan-zan Mountain

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 因幡三山(いなばさんざん)とは、鳥取県国府町にある甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま)の三つの山の総称。 この一帯は、奈良から平安・鎌倉の時代にかけて、政治文化の中心地として繁栄し、因幡国府が置かれた場所である。万葉集の編纂者で有名な大伴家持が、天平宝字二(758)年、因幡守に命ぜられてやってきたことでも知られる。
 万葉集の巻末を結ぶ有名な歌、「新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいや重け吉事(いやしけよごと)」は、ここ因幡の地で詠まれたものであり、このことから万葉集はこの地で編纂作業を進められたと考えられている。
 国府を中心として東に甑山、西に面影山、南に今木山が位置し、国庁の正殿から因幡三山を望むことができたという。面影山は女性、甑山と今木山は男性の姿に見える。
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