NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/13


くしふる神社 Kushifuru-Jinja Kurufushi Shrine

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 くしふる神社は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。祭神は、天津日子彦番火邇々杵命。
 神社創建は不詳で、はじめは社殿もなく、山そのものを神体として祀り、高千穂八十八社のひとつに数えられていた。元禄七(1694)年、当時の延岡藩主や村人たちの厚い信仰により、社殿が建てられた。
 古事記にはニニギノミコトが降り立った所は、高千穂の「くじふる峰」と記されているが、その場所と考えられている「くしふる峰」の中腹にある神社である。周辺には神武天皇の兄弟神の生誕地である四皇子峰や高天原遥拝所、高千穂碑等の神話史跡がある。
 森に囲まれ静かな佇いの社で、高千穂神社、天岩戸神社、くしふる神社の三カ所を詣でる三社参りが古くから人気となっている。
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2008/2/19


奥石神社 Oiso-jinja Oiso Shrine

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 奥石神社(おいそじんじゃ)の創建年は不明であり、もともと繖山(きぬがさやま)山頂の磐座(いわくら)を遠拝する祭祀場として営まれたものとされている。
 祭神は、藤原氏の祖である天津児屋根命(あまつこやねのみこと)である。
 日本神話によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が受けた海神の怒りを解くため、后である弟橘媛(おとたちばなひめのみこと)が海に身を投じた。
 このとき懐妊していた妃は、「自分は老蘇(おいそ)の森に留まって女人安産を守る」と言い残した。このことからこの神社は安産の神といわれて、広く信仰されている。
 老樹の茂る参道を進んでいくと、神域である老蘇の森が神社を護るように広がっている。
 本殿は三間社流造で重要文化財である。棟札より天正九(1581)年の建立とされている。
 境内の一隅には「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」という本居宣長(もとおりのりなが)の歌碑も立っている。
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2007/12/14


高屋山上陵 Takaya-no-yama-no-eno-misasagi 

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 高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)は、杉木立に囲まれた標高三九〇メートルの山頂にある。ここには天津日高彦火火出見尊(あまつひたかひこほほでのみこと)を祀っている。邇邇芸命(ににぎのみこと)の皇子で山幸彦ともいう。
 薩摩川内市宮内町にある可愛山陵、鹿屋市吾平町にある吾平山上陵とともに神代三山稜の一つにかぞえられている。
 もともとこの地は神在りの岡、または神割の岡と呼ばれていた。古来より室町時代まで頂上に「鷹屋大明神」があったといわれる。
 明治七(1874)年にこの地を彦火々出見尊の陵墓として決められ、陵域は立ち入りが出来ない。
 古事記に「ミコトの陵は其の高千穂の西に在り」と記されていることから、明治七(1874)年にこの地を彦火々出見尊の陵墓として決定した。
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2007/9/10


霧島神宮 Kirishima-jinguu 

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 霧島神宮は、鹿児島県霧島市霧島田口にある神社である。祭神は天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。国指定の重要文化財とされる。
 欽明天皇の御宇(540年)、高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。
 火山の麓にあるため度々炎上し、天暦年間(938~956年)には高千穂河原に遷されるが、ここでも噴火の巻添えで炎上する。
 文明一六(1484)年、現在地に兼慶が神社を再建した。
 正徳五(1715)年、現在の社殿が完成する。
 修験僧による霧島山を中心とした、霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしている。
 社殿はいずれも朱塗りの華麗なものであり、特に本殿は内部も豪華に装飾され、贅をこらしていて、西の日光とも言われる。
 霧島神宮は、神代からの長い伝統を誇る古社である。
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2007/8/6


くしふる神社大祭 Kushifuru-jinja-taisai Kushifuru-jinjya Shrine Festival

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 くしふる神社大祭(くしふるじんじゃたいさい)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井のくしふる神社にて毎年10月に開催されている祭りである。
 くしふる神社は、創建年代は不詳で、はじめは社殿もなく山そのものを神体として祀っていたが、元禄七(1694)年、延岡藩主や村人たちの厚い信仰によって社殿が建てられた古社である。祭神は、天津日子彦番火邇々杵命(あまつひこひこほのににぎのみこと)。
 大祭の見所である御神幸行列では、みこしや神楽隊など600人を超える大行列が、くしふる神社から高千穂神社までの市街地往復約2・6kmを練り歩く。
 350年以上の伝統を誇る奉納宮相撲は、午後から境内相撲場であり、乳幼児が泣き声を競って健やかな成長を願う「うなり相撲」の他、棒術隊に神楽隊の行進、弓道大会なども開催されている。
 くしふる神社大祭は、長い伝統を誇る勇壮な祭りである。
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2007/6/29


天人峡 Tennin-kyou 

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 天人峡(てんにんきょう)は、北海道旭川市から北上して1時間の山間部に位置する。外界と完全に隔絶された場所にある天人峡は、「秘境」の名にふさわしい美しい渓谷美が楽しめる場所である。
 天人峡といえば忠別川に落ちる「羽衣の滝」が有名である。落差270mの、豊富な水量を誇る荒々しい流れの滝である。羽衣の滝から徒歩で20分ほどのところには「敷島の滝」がある。高さはさほどないが、本流にかかるだけあって圧倒される水量だ。
 また、天人峡には、数々の奇岩があることでも知られる。天津岩(あまついわ)」は、大雪山の火山群が噴火した軽石・火山灰などが高温のまま溶け合って凝固した柱状の柱状節理の岩である。そのほか天女が羽衣を失くし、泣いていた涙がいまだに岩に流れているという羽衣伝説の残る「涙岩」など、見どころは豊富だ。
 天人峡は、自然の作り出した造形の不思議に心癒される「やすらぎ」の場所である。
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2007/6/21


能面 天神 Noumen Tenjin Noh Mask Tenjin

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 天神(てんじん)は能に用いる面の一つで、様々な神を表現する。
 天神は、天満大自在天神の略称で、菅原道真が神に祀られる前の激しい形相を表していると言われる。
 能の「雷電(らいでん)」は、陰謀により左遷させられ非業の死を遂げた菅原道真が雷神となって災いを起こそうとする。しかし、比叡山延暦寺の法性坊律師僧正との戦いに敗れてしまう。その後、帝が天神の位を与えることによって成仏した道真公が「学業の神」である天神として祀られるという話で、この災いを起こす雷電として登場するのが天神の面である。
 目、眉、髭は力強く独特な形状をしており、また全体を朱で塗られている等、鬼のようなイメージの反面、鼻、口元、歯などは人間のそれに近い造作をしている。
 「舎利(しゃり)」では足の速い仏である韋駄天、「金札(きんさつ)」では金札と弓矢で悪魔を降伏させる神・天津太玉等に使用される。
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2007/4/6


天津司の舞 Tendushi-no-mai 

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 天津司(てんづし)の舞は山梨県甲府市小瀬町の天津司神社に古くから伝わる神事。日本最古の人形芝居とも言われ、人形浄瑠璃の始祖とも称される、国の重要無形民俗文化財である。
 太古、甲府盆地は湖水であった頃、十二の神がここに舞い降り、湖面で舞い遊んでいたが、二神は天に戻り、一神は鏡池に沈んだ。しかし残る九神の神々が水面で舞い続け、この地が開かれたという伝説がある。その後、平安時代になって、村人がその神々の姿を模し、神像を造ったという。
 毎年四月の桜の咲くころ、九体の人形が、小瀬町の天津司神社から隣町の下鍛冶屋町の諏訪神社へと御幸した後、境内に造られた「お舟囲い」と言われる幕の中で舞いを奉納。笛や太鼓に合わせて人形が幕の上へ登場する様は、幕の周辺から見ると、神々がまるで水面で舞うようである。
 今でも町をあげて保護、保存を行い、伝統が伝えられている。
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