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2008/7/11


西馬音内盆踊り Nishimonai-bon-odori Nishimonai Bon Dancing

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 西馬音内盆踊り(にしもないぼんおどり)は、五穀豊穣や先祖供養を願い、秋田県羽後町の西馬音内地区に伝わる伝統行事。起原は定かではないが、一説によると約七〇〇年前に西馬音に御嶽神社を勧請した折に豊年踊りを踊らせたのが始まりともいわれている。
 昭和五六(1981)年に盆踊りとしては全国で初めて、国の重要無形民俗文化財に指定された。
 笛や太鼓、三味線の囃子が櫓の上で鳴り響く中、未成年の女子は彦三頭巾をかぶり、成人の女性は鳥追い笠という編み笠をかぶって顔を隠し、亡者に変して優雅に舞う。女装した男性の踊り子もいる。
 明るいテンポの「音頭」と、静かなリズムの「がんけ」の二種類の踊り方がある。複雑で難しい足の動きにあわせた手の動きが、なんとも美しい踊りである。
 衣装は代々母から受け継がれてきた端縫いの衣装と決まっていて、衣装の柄やデザインは各自違っている。そこには古い絹や呉服を貰い受けて娘のために作ってきた、母達の長い歴史も物語られている。
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2008/7/7


祇王寺 Giou-ji 

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 京都市嵯峨の祇王寺(ぎおうじ)は、平家物語に登場する平清盛に寵愛された女性たちの悲話が伝わる寺院である。
 美しい姉妹、祇王(ぎおう)と祇女(ぎにょ)は歌舞の一種である「白拍子」の名手であった。清盛は祇王を寵愛し、姉妹とその母親・刀自(とじ)に住まいをあてがい大切にしていた。後に仏御前(ほとけごぜん)という新たな白拍子が現れるが、清盛に舞を見てもらおうと自ら訪ね、追い返されてしまう。それを可哀相に思った祇王が二人の間を取り成すが、清盛は心変わりをしてしまい、祇王を追い出してしまう。祇王は悲しみ、母と妹と三人で嵯峨の往生院に入り尼となった。その半年後、祇王の不幸に同情した仏御前も尼となったといわれている。
 往生院は法然の弟子・念仏房良鎮(ねんぶつぼうりょうちん)が創建したとされ、広い地域を占めていたが、いつしか尼寺が残り、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。
 清盛と四人の女性の木像が安置されており、はるか昔の物語の遺跡として残されている。
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2008/2/29


西方海岸 Nishikata-kaigan 

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 西方海岸(にしかたかいがん)は、鹿児島県薩摩川内(せんだい)市の西側、東シナ海を望む海岸で、晴れた日には25キロメートル先に浮かぶ甑(こしき)列島を望むことができる。
 半円状に美しいアーチを描いた海岸線の先に小島が浮かび、CMや映画のロケ、雑誌の撮影などにも多数利用されている景勝地である。
 周囲は海水浴場としても整備されており、白い砂浜と紺碧の海が大変に美しく、アサリ採りやハゼ釣りを楽しむ人も多く訪れる。
 季節風や台風などの影響からか不思議な形の奇岩も多く、海岸線の上方に高さ10メートル以上もある、まるで親子が寄り添うような形で有名な「人形岩」がある。この人形岩は様々な伝説が伝えられており、海辺で亡くなった母親が人形岩の父と子に会いに行くという話や、海に消えた母親を父と子が待ち続けているという話など諸説ある。夕日を逆光線で見る人形岩のシルエットは、どこか儚げで美しい。
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2008/2/18


妓王寺 Giou-ji Gioji Temple in Yasu

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 奥嵯峨の祇王寺とは別に、祇王・祇女(ぎおう・ぎじょ)の出身地といわれる滋賀県野洲町にも妓王寺(ぎおうじ)という寺がある。
 平家物語に登場する妓王はこの地に生まれた。父親の戦死後、母とともに都へ向かい、男装して舞いや歌を披露する白拍子(しらびょうし)となる。
 その美貌と優しさから平清盛の寵愛を一身に受けた妓王は、干ばつに苦しむ故郷を救うために、清盛に願い出て水路を掘らせ、一帯は息を吹き返し、有数の米どころとなった。村人たちは感謝を込めてこの水路に「妓王井川(ぎおういがわ)」の名をつけた。
 ある日、仏という美しい白拍子に清盛は心変わりをしてしまう。暇を出された妓王は深く悲しみ、妹の妓女、母とともに尼となって都を離れる。思わぬ結果に「明日は我が身、日が昇ればいつかは沈む。」と悟った仏は、邸を逃げ出し妓王のもとを訪れ、ともに尼となる。
 妓王寺は村人の感謝の念と、妓王と妓女、母親、そして仏の菩提を弔うために建てられたもので、四人の像が安置されている。
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滋賀 願成寺 Shiga Ganjou-ji Ganjoji Temple

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 滋賀の願成寺(がんじょうじ)は、滋賀県蒲生郡蒲生町川合にある曹洞宗の寺である。本尊は聖観世音菩薩像。蒲生観音霊場第26番、釈迦三十二禅刹第9番、近江湖東名刹二十七ヶ所霊場第24番札所とされる。
 聖徳太子の発願によって仏法興隆、諸国安泰のため全国46ケ所に建立された願成就寺の1つであり、本尊は33年に1度の開扉とされる秘仏で、聖徳太子の母の面彰を写し刻まれたと言われている。
 もとは天台宗であったが、寛永二(1625)年、三栄本秀禅師によって中興され、曹洞宗に改宗した。
 昔この寺にいた美しい尼僧を慕い、姿を変えて毎日通った人魚のミイラと伝えられているものが観音堂に保存されている。また、本堂には中世の石造遺品が数多く残っている。
 滋賀の願成寺は、古式ゆかしい聖徳太子ゆかりの寺院である。
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2008/1/8


大豆坂地蔵尊 Oomamesaka-jizou-son Omamezaka Jizo-son

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 大豆坂地蔵尊(おおまめざかじぞうそん)例大祭は、毎年四月に宮城県志田郡三本木町で開催される祭りである。大豆坂地蔵尊は、三本木町の国道4号線沿いにある。明和二(1765)年、放火の大罪を犯し、処刑された者の後世を弔う為に彫刻されたもので、高さ4メートルと日本一の地蔵尊である。
 傍らには子供のお地蔵様を両脇に抱いている地蔵尊もあり、無病延命の子育て地蔵として、子どもの健康や成長を願う家族連れの参詣が多いとされる。
 例大祭では、午前中から稚児行列や地域の団体約二〇〇名が参加する交通安全パレードなどが行なわれる。華やかな装束をまとい、母親と手をつないで晴れやかに歩く子供たちには、沿道から拍手がおこる。
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2007/12/21


尾張 大野城跡 Owari Oono-jou-ato Ono Castle Ruins in Owari

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 大野城は別名・宮山城ともいい、伊勢湾が一望できる青海山(せいかいざん)の山頂に築かれている。城主は尾張源氏の大野氏・一色氏・佐治氏四代と続いた。
 大野城主・佐治氏は、知多水軍を率いて海運による交易などを進め、伊勢湾の海上交通を支配する上で重要な役割を果たしてきた。織田信長の妹と後の徳川秀忠の妻となる姪が佐治氏に嫁いだことも、信長が知多水軍の輸送力を重要視していたためと伝えられる。
 織田信長の妹お市の末娘・小督の方(おごうのかた)は、城主・佐治与九郎のもとへ嫁いだ後、徳川三代将軍家光の母となる。
 現在は城山公園として整備され、二層の天守閣に見立てた展望台と城門が建てられている。伊勢湾をのぞむ天主閣からの景色は素晴らしい。また、物見櫓跡には大野城主であった佐治氏を祀る佐治神社がある。
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2007/10/11


龍華山等覚寺 Ryuuge-zan-toukaku-ji 

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 伊達氏の城下町として発展してきた宇和島。JR宇和島駅の南側を流れる辰野川を挟むようにして、神社仏閣が建ち並ぶ。川辺の路地を上流へしばらく進むと、野川地区の入り口に龍華山等覚寺(りゅうげざんとうかくじ)が見えてくる。敷地には荘厳な墓石が連なる。ここは伊達家の菩提寺として知られる。
 等覚寺は元和四(1618)年、生母の菩提を弔うため初代藩主・伊達秀宗(だてひでむね)が建立。当時は白雲山龍泉寺と号したが、万治元(1658)年に秀宗の墓所となってからは浄妙山等覚寺と改め、さらに安永七(1778)年に山号を龍華山と改称して現在に至る。
 本堂と庫裏は、昭和二〇(1945)年の戦災により焼失したが、鐘楼のある山門だけは残り、わずかに当時を偲ばせる。
 墓には、初代~四代、六代、八代の各藩主のほかに、藩主夫人や殉死した藩士まで葬られている。墓からは宇和島城を望むことができる。
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