NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/11


紺絲威鎧 Konitoodoshi-yoroi 

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 紺絲威鎧(こんいとおどしよろい)は、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に伝わる防具である。国宝に指定されている。
 大山祇神社は、推古天皇二(594)年に創祠されたと伝わる、日本総鎮守ともされる古社である。祭神は大山積神(おおやまつみのかみ)。国宝8件、国の重要文化財75件を所有する日本有数の神社である。
 源平合戦で、屋島合戦に軍船130隻を率いて源義経軍に加わり、後には奥州藤原氏の討伐にも参加した三島水軍の総帥である河野通信(こうのみちのぶ)所用と伝わっている。
 見目が大変美しく、現在は源平合戦時代の鎧の代表作であるとされている。
 紺絲威鎧は、屋島・壇ノ浦の合戦の戦勝のお礼に奉納したと伝わる貴重な鎧である。
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2008/7/10


赤絲威鎧 Akaitodoshi-yoroi 

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 赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)は、日本の防具である。うち、5つが国宝に指定されている。
 鉄製または皮革製の短冊状の小さな板である小札(こざね)を、色糸やなめし革の紐を用いて縦方向に連結する事を「威す(おどす)」といい、元々は、威とは緒通しからの変遷であると言われている。赤い組紐で威した独特の日本鎧が、赤絲威鎧である。
 現在、そのうちの5つが国宝に指定されており、中でも愛媛県の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)が所蔵しているものは、源義経が奉納したと伝わっている。
 また、奈良県の春日大社(かすがたいしゃ)には国宝の赤絲威鎧が2つあり、うち1つはやはり源義経が奉納したと伝えられる大鍬型赤糸威竹に虎金物の鎧である。
 他にも、青森県の櫛引八幡宮と東京の御嶽神社に、国宝の赤絲威鎧が納められている。
 赤絲威鎧は、古くから日本で作られてきた伝統の日本鎧である。
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2008/7/7


平家納経 Heike-noukyou 

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 厳島神社(いつくしまじんじゃ)に伝来する装飾経(そうしょくきょう)。装飾経とは、仏教で使用される経典の中でも料紙に美麗な装飾を施したものを指す。
 この『平家納経』(へいけのうきょう)は、長寛二(1164)年、平清盛が平家の繁栄を願って厳島に奉納したといわれる三十二巻におよぶ経文で、制作には一門の一人ひとりがあたった。法華経二八巻に法華経の開経、結経の無量義経・観普賢経、さらに阿弥陀仏と般若心経を加え、願文を添えた三三巻から成る。
 各経文とも、表紙や見返し、本文の料紙の細部に至るまで煌びやかな装飾や王朝の優雅さを示す絵画で飾られ、「金銀荘雲竜文銅製経箱」と呼ばれる基台に乗せられた経箱に納められている。これには一門の総帥である平清盛のもつ飛び抜けた美的センス、独特な感性が大いに反映されており、まさに平安末期を代表する美術工芸品といえる。
 当時の平家の栄華を今に伝える美の傑作として、現在は国宝となっている。
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2008/5/19


みんまや義経まつり Minmaya-yoshitsune-matsuri 

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 みんまや義経まつり(みんまやよしつねまつり)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩にて毎年八月一四日、一五日に行われている祭りである。
 この地区には、逃げ延びた源義経がここから北海道へ渡った、という伝説が残されている。
 祭りは義経伝説を再現したもので、義経や静御前、弁慶など従者40人ほどに仮装した行列が、三厩体育館から義経海浜公園まで行進する。
 平安朝絵巻が二日間にわたって繰り広げられ、流し踊り、花火大会、義経こだわりゲームなどの催しも多彩に行われる。
 三厩という地名も、義経が三つの石に馬を繋いだ、という言い伝えからきている。
 みんまや義経まつりは、義経伝説に因んだ、賑やかで楽しい夏祭りである。
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2008/3/5


弥彦神社 yahiko-jinjya yahiko Shrine

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 越後平野の中央にそびえ立つ弥彦山の麓に、弥彦(伊夜比古)神社(やひこ(いやひこ)じんじゃ)はある。越後国の一ノ宮である。
 境内はうっそうとした樹林に覆われ、長い月日を経てきた老杉、古欅が佇んでいる。その創建年代は不詳だが、万葉集にも歌われたほどの古社。
 祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。神武天皇の命を受け、越後国開拓のため地元の民に、漁労や製塩、稲作や養蚕などの農耕術を教えたという。かつては、伊夜比古さまと呼ばれ、越後の人々の心のふるさと、魂のよりどころとして、古くから栄えてきた。
 日本有数の長い日本刀である志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経らに所以すると伝えられる武具などの文物が、社宝として宝物館に展示されている。
 現在の社殿は、火災のために焼失した後、大正五(1916)年に再建されたものである。
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2008/2/22


いわき絵のぼり Iwaki-enobori 

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 いわき絵のぼりは、端午の節句や男の子の成長を祝う縁起物として、江戸時代から伝えられてきた。一五種類の顔料を用い、大きな木綿地に鮮やかに描かれる。
 絵柄は、邪気を払う神といわれる鍾馗(しょうき)、八幡太郎義家や源義経、武田信玄と上杉謙信による川中島合戦などの武者絵をはじめ、高砂、神功皇后、大黒など迫力あるものばかり一五種類ある。
 いずれも丹念な手描きで、故事にあやかって子供たちの健やかな成長を願う親心が込められており、贈り物としても人気が高い。平成九(1997)年、福島県の伝統的工芸品に指定された。
 工程は、木綿全体に糊付け処理を行う「下地」、顔料に接着力を加える「豆汁(ごじる)」、薄墨で下絵を描く「下描き」、色付けをする「下塗り」「上塗り」、絵に生命を吹き込む「輪郭線」、輪郭線を残す彫り塗りの技法で墨を挿す「墨描き」、衣服や鎧の模様を描き込む「模様」、家紋を描く「家紋」から成る。完成まで一週間以上を要する。市内では複数の職人が製作に携わっている。
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2008/2/7


五条大橋 Gojou-oohashi 

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 五条大橋(ごじょうおおはし)とは、京都府の京都市内の繁華街を、北から南へ流れる鴨川にかかる橋のことをいう。国道九号線と国道一号線を結び、京都でも有数の基幹道路に架かる橋として知られている。
 この橋は、もともと清水寺(きよみずでら)参詣のためにつくられた橋で、平安時代から中世まで清水寺が管理していた。
 五条大橋のたもとには、牛若丸と弁慶の像が建っている。この橋は牛若丸と弁慶が初めて出会った所とされているが、平安京の時代の五条大橋は現在の位置ではなく、今の五条大橋の北にある松原橋であったといわれている。豊臣秀吉が天正一七(1589)年、方広寺大仏殿造営の際に現在の五条大橋の位置に架け替えたのである。
 五条大橋での牛若丸と弁慶の戦いはあまりにも有名で、降参した弁慶は牛若丸、のちの源義経の家来になり、最後まで義経に忠節を尽くすのである。
 現在の鉄橋を完成させたのは、当時の京都市長であった高山義三(たかやまぎぞう)で、昭和三四(1959)年のことであった。
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2007/12/10


大分 岡城 Ooita Oka-jou 

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 大分の岡城(おかじょう)は、大分県竹田市竹田にあった城である。
 文治元(1185)年、源義経を迎えるために緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)により築城されたと伝えられる。
 建武元(1334)年、大友氏の一族である志賀貞朝が大がかりな改修を加え、岡城と名付けた。
 四方を断崖絶壁の谷に囲まれた難攻不落の城として知られ、天正一四(1586)年には4万人近い島津軍を1000人で守った。
 江戸時代は岡藩7万石・中川氏の居城とされたが、明治四(1871)年、廃城となった。
 城の形が牛の寝ている姿に似ていたことから別名・臥牛城(がぎゅうじょう)とも呼ばれる。
 日本さくら名所100選に選定されており、毎年4月に雅な大名行列の桜まつりが行われている。
 岡城は、長い歴史を誇る、歴戦の城跡である。
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