NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

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 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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