NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/8/10


挙母城址 Koromo-jo-shi Koromo Castle Ruins

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 挙母城址(ころもじょうし)は、愛知県豊田市小坂本町にある史跡である。昭和三四(1959)年、豊田市に改名されるまで、この地は挙母市という名であった。
 矢作川の氾濫を避けるために七つの州が見える台地に作られたので、七州城とも言われた。
 寛延二(1749)年、内藤政苗が2万石で上野安中から入封した時に、新しく挙母藩がひらかれ、政苗は幕府から築城費を与えられて、天明二(1782)年、童子山に挙母城が築城された。
 江戸中期に作られた新しい城であるが、櫓2基と要所に櫓門を設けた小規模な造りとなっている。
 内藤氏は政苗以後、挙母を動くことなく、11代文成の時に明治を迎え、挙母城は廃城となった。
 現在、城跡は城址公園として整備されており、豊田市美術館を中心とした文化施設の一角に、昭和になって復興された隅櫓(すみやぐら)が建てられている。
 挙母城址は、江戸時代の挙母藩を偲ばれる静かな史跡である。
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大名行列 Daimyou-gyouretsu Daimyo’s Procession

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 徳川幕府三代将軍徳川家光は、幕府体制維持のために、武家諸法度に参勤交代をもりこみ制度化させた。これによって大名の妻や子は江戸に居住することを義務付けられ、大名自身は1年おきに江戸と国許を往復しなければならなくなった。この往復する大名一行の行列を大名行列という。
 この大名行列の人数、内容とも大名の石高によって細かく定められていた。よく映画などで見受ける「シタニー、シタニー」の掛け声の露払いを先頭に、六尺、挟み箱、毛槍、弓、鉄砲、徒士、小姓、大名、家老、大名籠、奥女中、腰元、長持などが続いていく。
 江戸時代最大の石高藩、加賀藩では実に二千五百人の行列という記録も残っている。
 江戸時代初期には各藩権威を争い華麗な行列であったが、経費がかさむことから次第に簡素化されていった。
 
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2007/8/9


信光明寺 Shinkoumyou-ji Shinkomyoji Temple

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 信光明寺(しんこうみょうじ)は、愛知県岡崎市岩津町東山にある浄土宗の寺である。本尊は、釈迦如来。
 宝徳三(1451)年、松平家3代信光が浄土宗鎮西派の釈誉存冏(しゃくよぞんげい)に帰依、創建された。
 境内にある観音堂は、文明一〇(1478)年に建てられたもので、屋根の軒先の反りの深さ、総門の屋根にあがっている鬼瓦などに、室町中期の禅宗的趣味がよく表されており、国指定の重要文化財となっている。
 江戸時代には、将軍家の先祖菩提寺として幕府により篤く庇護され、諸堂の焼失などの際にも修復費用が捻出されている。
 この寺には文化財も多く、室町時代の山越阿弥陀如来像、南北朝時代の雲中阿弥陀如来像などが存在している。
 信光明寺は、徳川家の先祖・松平家の菩提寺として有名な長い歴史を誇る寺院である。
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2007/7/12


熊野神社・長床 Kumano-jinjya nagatoko 

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 源頼義・義家親子が天書三(1055)年前九年の役で陸奥征討に赴く際、武運を祈って紀州熊野から、熊野堂村(現河沼郡河東町)に勧請創建したのが始まり。
 その後、後三年の役(1083〜1087年)で再びこの地を訪れた源義家は、新宮の地に移すように命じ、造営は応徳二(1085)年に始まり、寛治三(1089)年に完成遷座し現在に至る。
 新宮熊野神社には、多くの国・県・市指定の文化財があるが、中でも長床は、昭和38年に国の重要文化財に指定され昭和46年から足掛け4年の歳月をかけ、膨大な経費を費やして解体修理復元がなされた。
 長床は、長大な規模と太い柱の配列が特徴。四方が吹き抜けのため、内部に林立する太い柱が見通され、いかにも古風でまさしく、平安期の荘厳な趣を今に伝えている。
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