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2007/11/9


鶴舞公園 Tsuruma-kouen 

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 鶴舞公園(つるまこうえん)は、愛知県名古屋市昭和区鶴舞にある公園である。読みは「つるま」が正しいが、「つるまい」公園と言う人も多い。
 明治四二(1909)年、名古屋最初の公園として開設され、翌年には第10回関西府県連合共進会の会場となっている。
 当初の噴水塔、奏楽堂、胡蝶ヶ池、鈴菜橋、聞天閣に加えて、幾何学模様の花壇、芝生など近世フランス式の庭園や、回遊式の日本庭園などを順次整備し、その後、運動場や動物園、図書館、公会堂なども作られた。
 噴水塔の北側に広がる桜林は春にはライトアップされ、夜桜見物を楽しめる人気のスポットで、対象的に竜ヶ池周辺は浮見堂や水面が一味違った趣を演出して、しっとりとした雰囲気を味わえる。
 鶴舞公園は、豊かな自然と数々の施設を併せ持つ景勝地である。
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2007/8/23


向山神楽獅子の神事 Mukaiyama-kagura-jishi-no-shinji Mukaiyama Lion Kagura Ritual

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 今から約四〇〇年前、名古屋城を築く際に、石垣に使われる築石(つきいし)と荷車を乙川から献上したとされる。その道中の無事と安全を願って露払いをしたのが、「向山の神楽獅子」であったと伝えられている。
 また、宝暦五(1755年)描かれた「乙川山車祭礼絵図」の先頭を行く獅子が向山獅子であると言われている。
 現在では半田市乙川地区の「春の山車祭り」に、向山町の「市杵嶋(いちきしま)神社」の祭礼神事の中で、本神楽とよばれる「鈴の舞」「剣の舞」「胴入の舞」の三種の舞が奉納されるようになった。これがいつの頃か「向山神楽獅子の神事」と呼ばれるようになり、昭和四四年三月一四日に半田市無形民族文化財に指定され、今に受け継がれている。
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からくり乱杭渡り人形 Karakuri-rangui-watari-ningyou 

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 愛知県碧南地方に伝わる「からくり乱杭渡り人形(らんぐいわたりにんぎょう)」は高さの違う杭を、下駄履きの人形が何にもつかまらずに一本一本渡っていく、というものである。
 最後の杭まで渡りきった人形は、杭から離れ、松の枝先に掛けられた太鼓を叩き、「天下太平楽」の掛け軸を拡げるという一連の演技をする。
 からくり乱杭渡り人形は、二体で一対となっており、天明八(1788)年に名古屋の人形師・舟津藤吉より金七両二分で譲り受けたものである。
 あまりに精巧な動きに、海外公演では「足に磁石が付けられているのだろう」と疑われたほどであったその技巧は、現代においても目を見張るものである。昭和五九(1984)年には碧南市の有形民俗文化財に指定された。
 古くから山車からくりで、東海地方の祭礼余興の主役として演じられてきたからくり杭渡り人形は、現在では四体しか残されていない、大変貴重な人形であり、残すべき匠の技である。
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尾張万歳 Owari-manzai Owari Manzai

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 愛知県知多市に伝わる「尾張万歳(おわりまんざい)」は「知多万歳」とも呼ばれ、平成八(1966)年に国の重要無形民俗文化財に指定された伝統芸能である。
 鎌倉時代の正応年間(1288~1293)、現在の名古屋市東区矢田町にある長母寺(ちょうぼじ)を開いた無住(むじゅう)国師が、寺に仕える村人に法華経を覚えやすいように歌えるものにした「法華経万歳」が起原とされている。
 伊勢・紀伊・遠江・木曽などを廻った尾張万歳は大衆にも受け、各地の万歳にも影響を与え大正時代には隆盛を極めた。
 扇子をかざして祝詞を言い立てる太夫(たゆう)一人と、小鼓で合いの手を入れる才蔵(さいぞう)一人が二人一組になって演じるのが基本であるが、才蔵の数を四人に増やしたり、楽器も三味線や胡弓を加えたり、と現在は華やかな舞台向けの芸として伝承されている。
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2007/8/9


中馬街道 Cyuuma-kaidou The Chuma Kaido Road

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 愛知県豐田市足助町新町を走る国道366号線。江戸時代この付近の道は、中馬街道と呼ばれていた。中馬街道は、三河から足助を通り、信州の産物を名古屋・京都・大阪へ運ぶ最短路の物資輸送の街道として栄えた。
 信州の馬稼ぎ人たちの組合「賃馬」「中継馬」が中馬の語源と言われている。
その名の通り、「入馬千駄出馬千駄」とうたわれ、最繁栄時には約七千数百頭の馬が活躍していたと言われている。
 明治後半、中馬街道の中継地として栄えていた足助も、中央線の開通により、宿場町としての機能も失われていった。
 今でも、足助町の中心部には江戸時代の町並みが随所に残っており、中央を流れる巴川には、当時の道が保存され、散策することができる。
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2007/6/18


宮宿 Miya-juku Miya-juku

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 宮宿(みやじゅく)は、東海道五十三次の四一番目の宿場町。現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。
 東海道の中で唯一、この宮宿と桑名宿の間は船でも通行が可能となっていた。この海上の距離が七里(約27キロメートル)あったことから、七里の渡しと呼ばれていた。
 江戸時代に街道が整備されると、中山道の脇街道「美濃路」や東海道の「佐屋街道」は分岐点であることからも大変な人が集まったが、更に熱田神宮の門前町であったことから、往来する旅人のほか参拝客でも大いに賑わった宿場であった。そのことから、旅籠の数は東海道最大数の二四八軒、本陣も二軒設置されていた。
 当時、脇本陣格の旅籠であった丹羽家住宅が市の有形文化財として現在も残されている。
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2007/6/14


藤川宿 Fujikawa-syuku Fujikawa-shuku

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 藤川宿(ふじかわしゅく)は、東海道五十三次のうち第三十七之次である、徳川以前の鎌倉時代から続く古い宿場町であった。
 現在の東海道すなわち国道一号線は、名鉄名古屋本線を挟んで町の北側を通っており、旧道である藤川の町は思いのほか静かだ。国道一号から分岐する所には、宿場の入口を示す「棒鼻」が残っている。
 藤川は古い宿場町の保存に積極的で、現在資料館となっている脇本陣跡の門や秋葉山常夜灯、連子格子の町家など、当時を偲ばせる建造物も少なくない。藤川駅の南側に藤川小学校があり、その前に西の棒鼻がある。東の棒鼻からおおよそ1キロメートル程だ。
 そこから少し先に「塩の道」であった吉良街道(きらかいどう)の分岐があり、碑が建っている。左手に分かれるのが吉良街道で当時の松並木が残っており、また右手の東海道にも藤川の松並木があり、国道一号への合流まで続いている。
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2007/6/11


桑名宿 Kuwana-juku Kuwana-juku

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 東海道を品川宿から数えて四十二番目の宿場に当る桑名宿(くわなじゅく)は、現在の三重県桑名市にあたる。「その手はくわな(桑名)の焼き蛤」と掛詞に残っているとおり、蛤が有名。
 桑名は宿場町として栄える以前から、物資の集積地、海運の中継港として栄えており、またお伊勢様として知られた伊勢神宮への参拝に向かう旅人にとっては、伊勢国への東の玄関口でもあった。
 桑名宿の一つ手前、名古屋の宮宿との間には木曽三川が流れており、越えることが大変難儀だったため、海上七里を船で渡る「七里の渡(わたし)」が設けられていた。歌川広重の東海道五十三次絵に「桑名 七里渡口」として描かれている。この航路は満潮時と干潮時で異なり、所要時間も一定していなかった。
 船着き場跡には伊勢神宮遙拝用の一の鳥居があり、伊勢神宮への参道を示す「伊勢国一の鳥居」とも呼ばれていた。この鳥居は今でも、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。
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