NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/28


短冊 Tanzaku 

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 短冊とは起源は定かでないが、書物によると平安時代にはすでに木簡(もっかん)の代用品としてメモなどに使われていたとされる。
 その後、鎌倉時代中期頃には歌会の題を引くくじとして使われたことから、短冊は和歌を書く用紙となった。
 やがて、短冊の寸法は縦30センチ、横6センチぐらいと定められ、材質も越後和紙の代表的なもので、その色合いが鶏卵ににていることから名づけられた鳥の子紙(とりのこし)か、椿を原料とした高級和紙の檀紙(だんし)が使用されるようになった。
 七夕で笹の葉に飾られる短冊は中国の陰陽五行説によるもので、赤・青・黄・白・黒の色にこれらを統一する最上の色として紫が置かれ、代わりに黒がなくなった短冊が使用されている。
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2008/8/13


詩吟 Shigin 

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 詩吟(しぎん)とは、漢詩や和歌などを独特の節回しで吟じ、歌う日本の伝統芸能である。
 日本語の言葉の語尾の母音を長く引き、そこに「節調」という独特の旋律を付加する唄い方の事を言い、詩吟を行う事を吟詠(ぎんえい)と言う。
 古くは中国から漢字が伝わった奈良・平安時代から、漢詩に節をつけて自由に歌っていたと言われている。
 今の詩吟の起源は、幕末・維新の頃、漢詩を吟唱する事が武士階級の間で流行し、今日行なわれている吟詠の直接の起源となった事に由来する。
 吟じ方には、一人で吟ずる独吟、数人で交互に吟ずる連吟、大勢の人が一緒に吟ずる合吟などがあり、剣舞を織り交ぜる事もある。
 詩吟は、現在では短歌や近体詩など漢詩以外の日本語でも吟詠されている、伝統芸能である。
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2008/1/17


大津絵 Ootsu-e 

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 大津絵(おおつえ)は、滋賀県大津地方の代表的な郷土みやげ品で、伝統民画と呼ばれる。その大半は、強烈な人間風刺がテーマになっている。
 江戸時代初期、東海道近江国追分あたりの名もなき画工が軒を並べ、街道を往来する旅人らに、信仰の対象として仏画を描き売ったのが始まりという。時代の変遷と共に世俗画、風刺画、人物画、風俗画へと転じ、また教訓的な和歌を添えたものも登場するなど、そのモチーフは百種類以上にのぼる。
 江戸時代を通じて東海道大津宿の名物となった大津絵は、文化・文政期(1804~1829)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、そこから「大津絵節」が生まれ、全国へと伝播していった。
 シンプルでのびのびとした描線、どこかユーモラスで風刺のきいた絵柄、そして独特の鮮やかな彩色が見る者を惹き付ける。現在は、紙に描かれたもののほか、絵馬やひょうたん、皿や掛け軸などもある。人間風刺という普遍的なテーマゆえに、いつの時代も民衆の心を捉えて離さない。
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2007/11/12


高田松原 Takadamastubara Tkada Pine Grove

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 日本百系にも数えられる、白砂青松の弓形海水浴場。白い砂浜に樹齢300年を超える約7万本の松が続くさまは、まるで日本画に描かれた風景のよう。
 盛岡中学時代の石川啄木が激賞し、また俳壇の巨星高浜虚子も日本百景の審査員として訪れた際に句を詠んでおり、それぞれ 歌碑、句碑 が置かれている。
 この「白砂青松」の地には年間約 440万人もの人々が憩いを求めてやって来る。
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2007/10/5


西行 Saigyou Saigyo

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 平安末期から鎌倉時代初期に活躍した大歌人である西行(さいぎょう)は、宮廷ではなく、山里などの僻地を好み、花鳥風月を愛でながら、生命の歌を詠んだ。
 元永元(1118)年に、武士の家系に誕生。一八歳で兵衛尉(皇室の警護兵)になり、鳥羽上皇に仕えた。文武両道で容姿端麗、政界にその名を轟かせたが、世の無常を感じ、二三歳で出家した。「西行」を法号とする。
 大寺院、特定の宗派には属さず、山里の庵に籠もって、和歌を通して悟りを求めた。郊外の小倉山(嵯峨)や鞍馬山、秘境霊場の奈良・吉野山、真言霊場・高野山などに庵を結んだ。四国巡礼を経て、再び高野山、伊勢に入り、最後は河内弘川寺(大阪府河南町)に辿り着き、この地で入寂した。
 『新古今和歌集』には最多の九四首が入選。『山家集』『山家心中集』『聞書集』などを残した。
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2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

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 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
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2007/7/4


三船祭 Mifune-matsuri 

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 毎年5月の第3日曜日、渡月橋上流の大堰川(おおいかわ)の川面に、平安時代が再現されたかのような雅な御遊びが繰り広げられる。車折神社(くるまざきじんじゃ)例祭の延長神事・三船祭(みふねまつり)である。
 竜頭船、鷁首船(げきすぶね)など約20数隻を従えた御座船がゆるゆると流れを漕ぎ上がり、舞踊、献茶、小唄、尺八などの諸芸が奉納される。また扇流船からは色とりどりの扇を川面に浮かべる「扇流し」が行なわれ、新緑の映える大堰川に華やかな彩りを添える。
 この祭りは、昌泰元(898)年、長月二一日、宇多上皇が嵐山に御幸の折、大堰川で御船遊びをなされたことが始まりとされているが、車折神社が昭和三年の御大典を記念し、故事に則って「三船祭」を創始、以降、5月14日の例祭の延長神事として行なわれるようになったもの。
 「三船」の名の由来は、白川天皇が御舟遊びをされた折、和歌・漢詩・奏楽に秀でた者を3隻の舟に乗せて従えたところからその名がついたとされている。
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2007/2/19


和歌 短歌 Waka Tanka Waka Tanka Poetry

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 和歌は日本に伝わる詩歌の形、大和歌(やまとうた)、三十一文字(みそひともじ)とも言われる。
 短歌は和歌の一形態。万葉集の初期には既に確立しており、平安時代にはそれまで詠われていた長唄や旋頭歌が廃れ、和歌は短歌を指す言葉ともなった。
 五、七、五、七、七の五句、三十一文字を原則として、それ以外の規約は無い。内容は詠み手の自由であり、生活、人生、自然など事象のあらゆることを詠んで構わない。
 特定の言葉の前に置く語句を定めた枕詞や、同音で二重の意味を取らせる掛詞など様々な技法があり、表現の幅を広げている。
 現代も語句を変えながら、読まれ続けている自由な歌である。
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日本の美意識。

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