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2008/7/31


氏郷まつり Ujisato-matsuri 

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 氏郷まつり(うじさとまつり)は、三重県松阪市にて「松阪開府の祖」と市民が親しむ蒲生氏郷公をたたえ、毎年一一月三日に行われる祭りである。
 文武に通じ、経世にすぐれ、歌を詠み、茶道の腕前は千利休七哲のひとりとして高名であったという戦国屈指の名将・蒲生氏郷(がもううじさと)。天正一二(1584)年、松ヶ島城主となった氏郷公は、わずか三年で松坂城を築城、町を「松坂」と命名し、楽市楽座、街道の整備を進め、斬新で画期的な政策を打ち出し松坂発展の基礎を敷いたといわれている。
 祭り当日の朝、まず松阪城跡天守閣跡に建つ松阪開府の碑にて、祭りの無事を祈る碑前祭(ひぜんさい)が執り行われる。その後、市民参加の勇ましい武者行列が行われ、馬に乗った歴代・松阪城主が武者を連れ町をねり歩く。氏郷の出身地である商店街では、滋賀県日野町の日野鉄砲隊による古式砲術が披露される。日野では氏郷の指揮の下、火縄銃が製造されていたという歴史が残されているといわれている。
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2008/6/30


松阪城 Matsuzaka-jou 

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 松阪城(まつざかじょう)は、三重県松阪市殿町にあった城である。かつては松坂城(まつさかじょう)と言われていた。日本100名城に選定されている。
 天正一六(1588)年、戦国の名将・知将と謳われた蒲生氏郷(がもううじさと)により、伊勢支配の拠点として築かれた。
 四五百森(よいほのもり)に、三層の天守閣を中心として金の間櫓等11棟の建物を建造し、小牧・長久手の戦後、松ヶ島城と大阪城の名をとり、松阪城と名付けた。
 以後、何人かの城主を迎え、元和五(1619)年、紀州徳川藩の所有となり、南伊勢国内を統括する城として代々城代が置かれた。
 現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などが存在する。
 松阪城は、明治維新まで使用された、長い歴史を誇る城である。
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2008/6/12


田丸城(玉丸城) Tamaru-jou(Tamaru-jou) 

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 田丸城(たまるじょう)は、三重県度会郡玉城町田丸にあった城である。別名・玉丸城(たまるじょう)とも呼ばれる。
 延元元(1336)年、南北朝時代に北畠親房(きたばたけちかふさ)が築き、愛洲氏を城主とした城で、当時は玉丸城と呼ばれ、城をめぐって激しい攻防戦が展開された。
 天正三(1575)年、北畠信雄が3層の天守閣をもつ堅固な城に改修し、田丸城と改称した。
 その後、織田信長の次男・信雄が居城とし、後には蒲生(がもう)氏郷配下の田丸直正が城代となった。
 江戸時代には徳川家紀州藩管理となり、家老の久野氏が代々城代を勤め、明治維新を迎えた。
 現在、城跡は城山公園になっており、公園内には石垣や内堀が残されている。
 田丸城は、戦国時代に争奪戦が繰り広げられた平山城である。
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2008/3/31


苗村神社 Namura-jinja Namura Shrine

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 苗村神社(なむらじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡竜王町綾戸にある神社である。祭神は国狭槌命(くにさずちのみこと)、大国主命、素盞嗚尊(すさのおのみこと)。
 創祀年月は不詳ながら古墳群が多く、祖霊信仰に始まる神社とされており、現在の東本殿は、地名の那牟羅と同音の長寸(なむら)と呼ばれる。
 安和二(969)年、大和国芳野金峯山の国狭槌命の神霊が、神域の西方に遷座された。この際、社殿が造営され、その社は東本殿に対して西本殿と呼ばれる。
 近隣33の村に氏子を持つ総社で、33年に1度、秋の大祭が行われる。
 境内に立ち並ぶ建築物のほとんどが国宝や重要文化財に指定されているという文化財の宝庫ともいえる神社で、茅葺きの楼門や、境内の不動堂には神仏混合の名残として木造不動明王像が安置されている。
 苗村神社は、古代より長く伝わってきた伝統の神社である。
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観音寺城跡 Kannonji-jou-seki Kannonji Castle Ruins

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 観音寺城跡(かんのんじじょうせき)は、滋賀県蒲生郡安土町石寺にある城跡である。国指定の史跡となっている。
 築城年代は明らかでないが、標高432・7mの繖山(きぬがさやま)、通称観音寺山に近江の守護・佐々木氏累代が居城し、同氏が六角と京極の二流に分かれてのちは、惣家六角氏の居城となった。
 永禄一一(1568)年、六角義賢・義治父子の時、上洛を目指す織田信長に進攻されて落城、以後は廃城となった。
 ほぼ全山を城域として、いたるところに石塁・土塁をめぐらし、大小無数の郭を構築した中世山城として全国有数の規模をもつ。
 山頂付近の西国札所の観音正寺周辺には巨石を組んだ石垣などが残り、ハイキング道としても楽しめる。
 観音寺城跡は、かつての佐々木氏・六角氏を偲ばせる史跡である。
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2008/2/22


会津 起上り小法師 Aizu Okiagari-koboushi 

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 会津起上り小法師(あいづおきあがりこぼうし)は、福島県会津地方に古くから伝わる郷土玩具の一つ。三センチほどの小さな和紙の張子細工で、稚児をかたどった姿が愛らしい。
 豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷(がもううじさと)が鶴ヶ城主として伊勢から国替えを命じられた際、下級武士の内職として作らせ、正月に売り出したのが始まりと伝えられている。現在も会津若松の中心街で毎年正月一〇日に開催される初市にて、風車などと共に縁起物として売られる。
 この起上り小法師は「七転八起」といって、転んでも転んでも起き上がることから、無病息災と家内安全を祈って神棚などに飾られる。また、家族と財産が増えるよう、家族の数より一個だけ多く買うのが習わしになっている。
 木型に和紙を張り、乾燥させた後に木型から外す。粘土を丸めたおもりを底にはめて糊付けし、赤と黒で彩色する。赤は魔除けを意味し、小法師の着る緋の衣は最高位を表している。
 平成九(1997)年三月、福島県の伝統的工芸品に指定された。
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会津天神 Aizu Tenjin 

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 猪苗代湖の西側に広がる会津若松市では、数々の郷土玩具が生産されている。中でも代表的なのが、会津若松張子(あいづわかまつはりこ)である。張子とは、人形の形をした木型に和紙を糊で幾重にも張り合わせて乾燥させた後、木型を取り出して和紙に彩色を施したものをいう。
 豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷(がもううじさと)が鶴ヶ城主として伊勢から国替えを命じられた際、下級武士の糧になるようにと京都から職人を招き、その技術を修得させたのが始まりといわれている。この地方の張子は「赤もの」とも呼ばれ、疫病除けに効果があるという赤色を基調に彩色されている。東北地方で作られる張子の中では最も古い。
 「会津天神」はその一つで、学問の神様として信仰される菅原道真にちなみ、頭が良くなるように、出世するようにとの気持ちが込められている。昔ながらの技法で丁寧に手作りされ、その顔つきの温和さと品の良さで人気が高い。平成九(1997)年三月、福島県の伝統的工芸品に指定された。
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2008/2/18


滋賀 願成寺 Shiga Ganjou-ji Ganjoji Temple

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 滋賀の願成寺(がんじょうじ)は、滋賀県蒲生郡蒲生町川合にある曹洞宗の寺である。本尊は聖観世音菩薩像。蒲生観音霊場第26番、釈迦三十二禅刹第9番、近江湖東名刹二十七ヶ所霊場第24番札所とされる。
 聖徳太子の発願によって仏法興隆、諸国安泰のため全国46ケ所に建立された願成就寺の1つであり、本尊は33年に1度の開扉とされる秘仏で、聖徳太子の母の面彰を写し刻まれたと言われている。
 もとは天台宗であったが、寛永二(1625)年、三栄本秀禅師によって中興され、曹洞宗に改宗した。
 昔この寺にいた美しい尼僧を慕い、姿を変えて毎日通った人魚のミイラと伝えられているものが観音堂に保存されている。また、本堂には中世の石造遺品が数多く残っている。
 滋賀の願成寺は、古式ゆかしい聖徳太子ゆかりの寺院である。
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