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2008/2/27


五城目城(砂沢城) Gojoume-jou(Sunazawa-jou) 

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 五城目城(ごじょうめじょう)は、秋田県南秋田郡五城目町兎品沢にあった城である。別名・砂沢城(すなざわじょう)とも呼ばれている。
 中世期は浦城主の三浦氏の支城だった。
 やがて天正年間(1573~1592)頃の安東・秋田氏の内紛後に五城目地域を支配するようになった藤原氏は五十目氏を称するようになり、その際「市」も馬場目城下から五城目に移ったとされ、藤原内記秀盛の居城となったと伝わる。
 慶長六(1601)年、秋田氏の転封により五十目氏もこの地を去り、廃城となった。
 現在、山頂には天守閣風の森林資料館があり、植林や伐採に使われた道具などが展示されている。標高97mの頂上に建つ為、天守からは町が一望出来る。
 五城目城は、五十目氏の居城として知られる城である。
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2008/1/24


高田焼 Kouda-yaki 

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 高田焼(こうだやき)は別名・八代焼(やつしろやき)とも呼ばれ、熊本県八代市に四〇〇年以上伝わる焼物である。
 陶工・尊楷(そんかい)は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した折に連れてきた、数多くの優れた技術者のひとりである。一度本国へ戻り、高麗焼の技法を身につけた尊楷は、慶長七(1602)年、現在の福岡県北九州市にあたる豊前小倉の藩主・細川忠興に招かれ、上野(あがの)の窯を築いたと言われている。
 その後、細川藩の肥後転封に伴って、尊楷は息子達と共に八代郡高田郷奈良木村に窯を開き、それが後に高田焼と呼ばれるようになったという。
 素地が完全に乾く前に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込む。そして余分な土を削り落とした後に透明な釉薬をかける、白土象嵌(ぞうがん)と呼ばれる特殊な技法が特徴的である。
 高麗の伝統を日本の今に伝える、美しく貴重な焼物である。
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2007/10/18


真壁城 Makabe-jyou 

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 真壁城は茨城県桜川市真壁町に位置した城である。
 承安二(1172)年、真壁長幹により築城、真壁氏歴代の居城として四百年に渡り使われた。
 慶長七(1602)年、佐竹義宣の秋田転封に真壁氏も従い移動。その後、慶長一六(1611)年、浅野家が入封し、元和八(1622)年の転封により廃城となった。
 建物は移築された城門が楽法寺に残るだけだが、城址は外堀を含め四重に造られた堀、長い土塁が現在も残り、かつての城の複雑な構造と巨大さを体感できる。
 現在、復元が行なわれており、縄張の通りに復元された背の高い土塁は、往時の城の頑健さを今に伝えている。
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土浦城 Tsuchiura-jyou 

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 土浦城は茨城県土浦市中央に位置した城である。
 桜川の支流を引き込み、水掘を周囲に囲ませた平城で、水に浮かぶ亀に見立て「亀城」の異名を持った。
 永享年間(1429〜41)に今泉三郎が築城した。戦国時代には小田守治が城主となるが、佐竹氏に攻められ降伏。江戸時代に入り転封が続くが、貞享四(1687)年に土屋政直が移封した後は幕末まで続いた。
 廃藩置県後廃城となり、明治一七(1884)年の火災で建物の多くが焼失した。
 現存するのは城門と櫓門で、本丸内櫓門は関東地方唯一のもの。周辺には土塁や堀が残り、往時の繁栄をうかがわせる。
 東櫓は近年復元されたもので、土浦市立博物館の一部として使われ、鯱瓦などの遺構を保存している。
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2007/10/12


祇園城跡 Gion-jyou-ato Gion Castle Ruins

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 源平合戦の頃から戦国時代末期まで、現栃木県小山市を中心に繁栄した小山氏の居城。
 築城年は定かではないが、記録には14世紀後半から登場する。祇園城の名前は、城守りの守として祇園社(現・須賀神社)を祀ったことに由来するとされる。
 小山氏の居城となったのは、戦国時代初頭、15世紀に入ってからで、関東争乱の舞台として重要な拠点となったという。最盛期には下野の守護役にも任じられるほど勢力を持った小山氏だが、戦国時代に入ると北条氏との対立・服従など時代の波に翻弄されることとなる。元和五(1619)年に当時の城主だった本多正純が宇都宮に転封されたのに伴い、祇園城もその歴史に幕を閉じた。
 現在は城山公園として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっている。
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2007/9/28


日野椀 Hino-wan Hino Lacquered Bowls

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 日野椀(ひのわん)は、滋賀県蒲生郡日野町に伝わる伝統工芸品である。
 天文二(1533)年、城主・蒲生定秀(がもうさだひで)が日野城下町を作った時、綿向山下に散在していた木地師や塗師を集めて塗師町・堅地町を設け、日野椀の生産を始めたとされている。
 貞秀の孫である氏郷が、天正一二(1584)年に転封したため、一時日野椀作りは衰微したが、日野商人たちが日野椀を行商の主力商品としたことから再び日野椀の生産が盛んになり、江戸初期には日本有数の椀の産地となり、広くその名が知られるようになった。
 初期に生産され今も残存する器は、祭器が多く見られ、厚手・高い高台を特徴とする。
 日野椀は、庶民使いの漆器として、日野商人による行商で全国へ広まった伝統工芸品である。
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2007/8/10


中江藤樹邸跡(至徳堂) Nakae-Touju-tei-ato(Shitoku-dou) 

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 近江出身の儒学者中江藤樹(とうじゅ)は後に「近江聖人」といわれるようになった江戸時代初期の陽明学者である。
 近江の農民中江吉次の長男として生まれた藤樹は、伯耆(ほうき)米子藩主加藤家の百五十石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴いた。その後藩主加藤貞泰の転封で祖父母とともに大州に移住。一五歳で家督相続し、独学で朱子学を学んだ。二七歳の時、脱藩し近江へ。以後門弟の教育に努め、四一歳で亡くなるまで知行合一(ちこうごういつ、陽明学の実践重視の教え)の実践を深めた。
 宇和島中学校大洲分校に学んだ窪田哲二郎氏からの寄付金を基金として、有馬純次校長の構想により、藤樹の遺徳を伝えまた学ぶ「学舎」として、百石取の武士の住居を模した「至徳堂」を建設。落成は昭和一四年一一月一八日。昭和二八年には愛媛県指定史跡に選定された。
 大洲城三の丸の跡に建てられた県立大洲高校の敷地内にある。
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2007/3/28


岩手 雲際寺 Iwate Unsai-ji 

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 雲際寺は岩手県奥州市衣川区に位置する曹洞宗の寺社。山号は妙好山。
 嘉祥三(850)年、慈覚大師により開基。中尊寺の別院であったが、文治二(1186)年、源義経が奥州に下った際に不動明王像を奉納し、正妻、北の方により再興されたと伝わる。
 文治五(1189)年、義経と北の方が敗れた後、僧、頼然により二人の位牌が置かれ、菩提を弔われた。山号の妙好山は北の方の法名であり、義経一行との縁の深さがうかがえる。
 江戸時代に入り、芦名家が転封され保護を受けた
 本尊は不動明王、義経奉納、運慶作と伝えられる。境内には史跡、張山古戦場跡が残り、奥州の歴史を伝える。
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