NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/15


小丸山公園 Komaruyama-kouen 

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 小丸山公園(こまるやまこうえん)は、石川県七尾市にある、桜の名所としても知られている公園である。
 元々この地には加賀藩藩祖である前田利家の居城であった小丸山城が建っていた。
 天正一〇(1582)年に築城された城で、利家はここで二年間を過ごした。
 今も公園内には石垣や本丸を中心とした三つの曲輪と堀切が残っており、それらを整備しつつ公園として生まれ変わった。
 戦としての城が建っていた場所だけに高台に位置し、眺望に恵まれている。また、海辺に近いこともあり、七尾の町並みと共に七尾湾を一望することもできる。
 園内には約二百本のソメイヨシノやヤエザクラ、シダレザクラが植えられており、シーズンになれば競うように咲き誇り、秋になれば紅葉が公園を美しく着飾り、訪れる人々に憩いと自然の美を与えてくれる。
 利家とまつの銅像も建てられており、小丸山城築城から四百年を経た今、七尾の街を二人静かに見下ろしている。
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2008/2/27


飯田城(長姫城) Iida-jou(Osahime-jou) 

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 飯田城(いいだじょう)は、天竜川の支流で、長野県飯田市内を流れる松川と野底川に挟まれた河岸段丘の先端部を利用して築かれた城である。
 長姫城の別名を持ち、本丸、二の丸、三の丸の各郭間に堀切を設けた連郭式の平山城であった。
 室町時代の建保年間(1213~1218)に、この地の地頭に任じられた坂西長由(ばんざいながゆき)によって築かれたとされている。
 その後、何度かの改築を受けつつ、信玄率いる武田軍と信長率いる織田軍の戦闘となった「下伊那侵攻」において、武田方の中核として機能した城であり、何人もの城主を経ながらも、戦国乱世から明治維新まで存続した下伊那地方唯一の城だった。
 現在も残る城の遺構はわずかであり、本丸があった場所には長姫神社が鎮座し、深い堀切と石塁、土塁を垣間見ることができる。
 また、宝暦四年(1754)建立の、門全体が紅殻で赤く塗られた通称「赤門」と呼ばれる桜丸御門が県合同庁舎前に移築保存されている。
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2007/6/13


宮崎 堀切峠 Miyazaki Horikiri-touge Horikiri Pass in Miyazaki

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 明治22年に開通した、宮崎県宮崎市折生迫にある堀切峠。
 宮崎市から国道220号線を南に向かって、青島バイパスを通り、いくつかのゆるやかなカーブを過ぎると景色ががらりと変わる。南国の木のフェニックスや花が咲き乱れる「堀切峠」が現れる。
 2005年にリニューアルした道の駅フェニックスが見えてくる。ここからの景色が大変人気があり、眼下に見える「日南海岸」は雄大な青い海と広い空を見ることができる。また海の侵食により、やわらかい岩の部分が削られ、大きな洗濯板のように凹凸が規則的にできた「鬼の洗濯岩」と呼ばれる、自然の産物がお目見えする。
 このあたりは日南海岸国定公園に指定されており、南国宮崎の象徴のひとつである。
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2007/3/19


名胡桃城跡 Nagurumi-jyou-ato Nagurumi Castle Ruins

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 名胡桃(なぐるみ)城は、安土桃山時代の天正六(1578)年、武田氏の家臣真田昌幸が 沼田城奪取の拠点として築いた。
 天正十七(1589)年、豊臣秀吉が沼田地方を北条氏に明け渡したが、名胡桃城だけは真田氏の要望により所領として残された。北条方の沼田城代となった猪俣邦憲がこれに激怒し、同年11月に名胡桃城を攻略。秀吉はこの事件を不服として北条氏を攻め滅ぼした、俗に言う名胡桃城事件。小田原征伐勃発の口火を切り、秀吉の天下統一のきっかけともなった出来事である。
 遺構としては、三の郭、ささ郭、袖郭、物見郭など、それぞれの郭が堀切によって区画されており、往時の縄張形態をよくとどめている。その他、般若郭や丸山と呼ぶ水の手郭の遺構が残っている。
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2007/2/2


岩切城 Iwakiri-jou Iwakiri Castle Ruins

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 岩切城は、宮城県仙台市宮城野区岩切にあった城である。
 岩切城は、陸奥国留守職の留守氏が南北朝時代に築城した。
 その後、足利尊氏と弟・直義の勢力争いから岩切合戦が起こり、留守氏は尊氏派として戦った。
 観応二(1351)年、尊氏派は岩切城に立て篭もったが、敵が総攻撃をかけ、奥州管領・畠山氏は自刃し留守氏も降伏した。
 以後も留守氏が居城としたが、元亀元(1570)年、留守氏を継いだ政景が利府城に拠点を移したため、廃城となった。
 現在は杉林、雑木林、原野となっており、各所に堀切や土塁が残るのみであるが、太白山、蔵王連峰などの眺望は素晴らしく、春は桜の名所としても名高い。
 岩切城は東北地方における典型的な中世城館であり、城跡は歴史の重みを感じられる場所である。
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2007/1/28


芦名沢館 Ashinasawa-date Ashinasawadate Castle Ruin

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 十和田湖町芦名沢集落の北東、生内川と切田川に挟まれた丘陵に位置し、北東側の丘陵を堀切りして作られている。城域は略三角形をしており、三角形の頂点が北郭、そして左右の底辺に西郭、東郭がある。
 一部畑地造成で埋められているところもあるが、二重掘が明瞭に残っており、全体的に保存状態は良い。
 城主は、奥瀬氏とも畠山氏とも言われるが、記録が無い為不明。いずれにしても、沢田館同様に津軽への道筋を押さえる役割を担った城館の一つであったと推定され、沿革は不明だが奥瀬氏一族又は畠山氏一族が居住したと伝えられる。
 また館跡から金の延べ棒が出土したという話も伝わっている。
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2007/1/26


黒石城 Kuroishi-jo Kuroishi Castle

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 1656年、弘前藩主津軽信義の弟信英が、兄の遺領のうち5千石を分知され、陣屋を築いたのが始まり。形式は平城だが、陣屋といっても立派な城郭である。別名烏城(うじょう)ともいう。
 黒石津軽氏は、8代親足が1809年に宗藩より6千石を分与され、都合1万石で大名となり、それ以後藩体制が確立した。
 明治4年廃藩置県により黒石陣屋は一般に解放され、居館(御殿)は津軽家から黒石町に寄贈され黒石小学校として使用された。現在は御幸公園となっている。
 公園のほとんどは広場になっており、南部分に堀切をはさんで小さな郭が残っており往時を偲ばせている。
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2007/1/12


白石敏道 Toshimithu Siraishi Toshimichi Shiraishi

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 1937年、葛飾区堀切生まれ。江戸漆器の伝統工芸士。
 父の代からの漆職人。1953年、16歳で千住の漆職人に弟子入り。63年、26歳で独立。
 江戸時代初期、徳川家康が京都から漆職人を連れてきたのが江戸漆器の始まりである。以来、すしの飯台、そばのせいろなど丈夫一点張りの業務用を柱に発達した。
 氏が作る漆器は、その質やできばえから考えると驚くほどに安価である。
 今、修理にも力を入れていると言う。「欠けていようと割れていようと、木製のものなら何でも、何度でも直るし、いっぺん直したらまた何十年も使えるんです。漆製品、漆器でしたら何でも修理します」とのこと。
 東京都伝統工芸士、葛飾区伝統工芸士、国家検定試験一級技能士。
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