NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/1


佐渡 たらい舟 Sado Tarai-bune Sado Tarai-bune (Tub Boat)

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 佐渡のたらい舟(たらいぶね)は、新潟県佐渡市に伝わる伝統的な漁船である。
 たらい舟は、日本の沿海で使われている船の中でも大変珍しい舟と言われている。
 小木半島に伝わるたらい舟は、昔の大事な嫁入り道具であり、岩礁と小さい入江が多い小木海岸では、小回りのきくたらい舟でのワカメ、サザエ漁が昔から行われていた。
 洗濯桶を改良したたらい舟が考案されたのは、明治時代初期の事で、現在でも漁に活躍している。
 また、小木港には観光用のたらい舟があり、実際に乗ったり漕いだりすることもできる。
 操作は、T字型のカイをまっすぐ立て、目標の一点を決めてカイの先で8の字を描くつもりで漕ぐ。
 佐渡のたらい舟は、地元特有の地形に合致した、実用的な伝統漁船である。
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2008/6/16


幸兵衛滝 Koubee-daki 

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 幸兵衛滝(こうべえだき)は、秋田県北秋田市阿仁にある、落差108mの滝である。
 立又渓谷(たちまたけいこく)の最奥部にあり、幸兵衛滝に辿り着く前に落差38mの一の滝、落差20mの二の滝が存在している。
 一の滝は、垂直の崖を勢いよく滑り落ちている滝で、落差の割に大きな迫力がある。
 二の滝は、さわさわと流れる階段状の優美な滝で、紅葉が素晴らしい。
 幸兵衛滝には滝見台があるが、あまりの大きさに落ち口、滝壺は見えず、まるで普通の川をそのまま斜めにしたような規模を誇る。
 緩い斜面を流れる滝で、白い飛沫は華やかで美しい。
 また、滝の上流にある杉の美林、桃洞・佐渡スギは、国の天然記念物となっている。
 幸兵衛滝は、3つの趣の違う滝を堪能出来る、豊かな瀑布である。
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2008/6/4


妙高山 Myoukou-zan 

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 妙高山(みょうこうざん)は標高2454メートルで、日本百名山のひとつに数えられ、美しい円錐形であることから、別名「越後富士」とも呼ばれている。
 和銅年間(708~715)に開山され、中世には修験者の行場として栄え、信仰登山が行われた。山そのものも、かつては旧妙高村の関山神社の社領だった。
 池の平、赤倉、燕の各登山口は古くからの湯量豊富な温泉地で、緩やかな斜面には多くのゲレンデが開かれている。山頂は北峰と南峰の二つのピークがあり、どちらも眺望は360度見渡せ、佐渡島や浅間山、南北アルプス、戸隠山、黒姫山など広い眺望を楽しむことができる。
 妙高山を中心として、神奈山、大倉山などの外輪山が∪字型に取り巻いている。南麓にある笹ヶ峰牧場は、妙高西側稜線上にある火打山や焼山登山の基地でもあり、秋になると紅葉につつまれ、美しい景観を見せる。
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2008/3/18


民謡 Minyou 

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 民謡(みんよう)は古代から続くその土地の生活に密着した歌で、稲作や農耕文化と深いかかわりをもち、また、日本語の発声、韻、すなわち、日本語の独特の響きをもつ言葉を歌にしたものと言える。
 古来、貴族や公家の社会では上品で静かな立ち振る舞いがよしとされ、能や狂言へと発達していったが、民謡は庶民という大きな集団のものであり、生活の中の風景や自然の姿を素朴に表現したものである。
 現在、各地に伝わる民謡の多くは江戸時代後期に生まれた。例えば、九州の天草の漁師たちの掛け声にリズムが加わったといわれる「ハイヤ節」は、海を介して各地に広がり、それぞれの生活の中に定着し、その地域ごとの変化を遂げた民謡となっている。牛深ハイヤ節、佐渡おけさ、津軽アイヤ節などがそれである。
 また民謡という語源が定着したのは明治に入ってからで、それまでは、小唄、風俗唄、俚謡、俗謡、地方唄、在郷唄など様々な名称で呼ばれていた。
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2008/2/25


三浦小平二(人間国宝) MiuraKoheiji 

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 みうら・こへいじ。昭和八(1933)年三月二一日~平成一八(2006)年一〇月三日。日本の陶芸家。
 佐渡の小平窯という無名の窯元、三浦小平の長男として誕生。昭和二六(1951)年、父の勧めで入学した東京芸術大学在学中に陶磁器の道に入り、卒業後は青磁の伝統技法を学んだ。
 数回にわたり中近東や東アフリカ、アジア諸国を巡り、各国の磁器の研究や自らの作品づくりに励んだ。特に、古代中国の皇室御用達であった南宋官窯に強い影響を受け、これを目標としながら研究を重ねた。
 その結果、佐渡の赤土を下地とした器に青磁釉(せいじゆう)をかけるという独特な技法を開発。さらに、青磁の一部に豆彩(とうさい)の技法を用いて人物や風物を絵付けして作風を確立した。器そのものの形にも感性が反映され、その現代的な感覚は、陶芸の世界に新風を巻き起こして注目された。
 平成八(1996)年に紫綬褒章を受章。平成九(1997)年には重要無形文化財「青磁」保持者(人間国宝)に認定された。
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2007/11/28


妙宣寺 五重塔 Myousen-ji Gojuu-no-tou 

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 佐渡には新潟県内唯一の五重塔がある。妙宣寺(みょうせんじ)の五重塔、国の重要文化財である。
 寺のはじまりは、鎌倉中期、法華経を唱えた日蓮が佐渡へ流された時、日蓮の身の回りの世話をしていた遠藤為盛と妻の千日尼が自宅を寺として開基したのが始まりだと伝えられている。弘安元(1278)年のことである。為盛は日蓮の直弟子となり後に阿仏房日得上人といわれた。寺には日蓮聖人筆書状などが残されている。
 五重塔は、佐渡相川の宮大工の棟梁親子が三十年の歳月をかけ、文政八(1825)年に完成させた。日光東照宮の五重塔を模したといわれるその姿は、高さ約24m、本瓦葺の純和様で、四天柱と心柱を貫(ぬき)でつなぐ独自の手法が用いられている。東照宮の五重塔は文化一四(1817)年の再建である。
 初層の隅木(すみぎ)下の持送りには、棟梁作の竜頭の彫刻が見られるなど、地方色豊かな仕上がりになっている。
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2007/10/31


土佐打刃物 Tosa-uchihamono 

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 土佐打刃物(とさうちはもの)とは、高知県の香美市(かみし)に古くから伝わる工芸品である。
 鎌倉時代後期の徳治元(1306)年、大和国より移り住んだ刀鍛冶の五郎左衛門吉光派が土佐打刃物をつくったのが始まりで、室町末期まで繁栄した。戦国の乱世では需要に応じ、武具や刀剣をつくっていた。
 天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めに参戦し、土佐一国を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、佐渡から刀鍛冶を連れて帰り、これが刃物の産地としての始まりとなった。「長宗我部地検帳」には、三九九軒の鍛冶屋が存在していたことが記録されている。
 本格的な生産が始まったのは元和七(1621)年で、土佐藩の財政復興として新田開発などの振興政策を受け、農林業用打刃物の需要が一気に拡大した。
 土佐打刃物は刀鍛冶から習得した技術で鎌や鉈、のこぎりなど農山林具を中心に発達した。切れ味がよく耐久性があり、研ぎやすいことで知られ、全国有数の刃物産地として高い評価を得ている。
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2007/10/9


功雲寺 Kouun-ji Kounji Temple

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 功雲寺(こううんじ)は、神奈川県相模原市津久井町にある曹洞宗の寺である。本尊は釈迦如来。
 応永一五(1408)年、宝ヶ峰の裏側、昔の太井村に創建され、当時は、耕雲庵と称されていた。その後、戦国時代になって、津久井城主・内藤景定が現在地に移し功雲寺として開基された。
 下総国鴻台(しもうさのくにこうのだい)、現在の千葉県市川市国府台にある総寧寺(そうねいじ)の末寺にあたる。総寧寺は、江戸時代に曹洞宗の関東僧録司・三ヶ寺の筆頭である。
 かつては、広い境内に山門、本堂、開山堂、白山堂、鐘楼などが立ち並び、寺領50石を封じられた大寺院だった。本堂の裏手には歴代住職の無縫塔群、その中央に景定夫妻のものといわれている宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ。
 これを囲んで代官守屋左太夫一族、城代家老馬場佐渡、元家臣で津久井総代名主・島崎律直らの墓が並んでおり、津久井城主の墓は、町指定文化財となっている。
 功雲寺は、領主内藤氏とゆかりの深い寺である。
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