NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/10


知覧武家屋敷庭園 Chiran-bukeyashiki-teien Old Samurai Gardens in Chiran

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 知覧武家屋敷庭園(ちらんぶけやしきていえん)は、鹿児島県南九州市知覧町(旧・川辺郡知覧町)にある江戸時代の武家屋敷群で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 約260年余り前、知覧領主・島津久峰時代の武士小路区割の名残り。現在、武家屋敷通りと屋敷庭園が保存されている。
 7軒の屋敷の庭園が見学でき、うち6軒は枯山水式庭園、1軒は築山池泉式庭園となっている。
 薩摩の小京都と呼ばれるにふさわしい佇まいを保ち、武家屋敷群は「人をもって城となす」という薩摩藩の気風を推し進めた外城のひとつとされる。
 各屋敷が塁のように防衛障壁となるよう工夫されており、端正にして優美、虚飾に走らず簡素を旨とした、薩摩武士の知性と上品さが伺える。
 知覧武家屋敷庭園群は、江戸の昔を思い起こさせる街並みである。
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2007/1/31


名古屋友禅 Nagoya-yuuzen Nagoya Yuzen Dyeing

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 愛知県名古屋市に伝わる友禅の技法をいかした染色品、国の伝統的工芸品に指定されている。
 18世紀の前半、尾張での文化が栄えた時代、全国各地との交流も盛んになり、この地を行き来していた京都の職人が染めの技法を伝えたことが始りであるとされている。もともとこのあたりは「絹織物」の産地であったため、染めの技法を受け入れやすい地でもあった。
 絵柄に特徴があり、京友禅の華やかとは対象に、渋さがある。
 これは名古屋の気風の影響といわれ、質素倹約を教えとした土地柄であったため、渋い色使いが多、色数をおさえて、単彩の濃淡が好んで使われている。
 絵付けには手描友禅と型友禅があり、技法が異なる。主な製品は着物地が中心である。
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2007/1/30


鶴岡八幡宮 Tsurugaoka-hachimanguu Tsuruoka Hachimangu Shrine

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 鶴岡八幡宮は、神奈川県鎌倉市にある神社である。主祭神は、応神天皇、比売神神、功皇后。
 鶴岡八幡宮は、康平六(1063)年、京の岩清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜郷に勧請し、社殿を創建した。治承四(1180)年、源頼朝が鎌倉入りすると、八幡宮を、この地、小林郷に移した。
 源頼朝がこの高台に社殿を作った時は、全国60余州を平定した時である。翌年には征夷大将軍になり、まさに絶頂期であった。
 以来、鶴岡八幡宮は常に鎌倉の象徴であり、幕府の儀式や行事は全てここを中心に行われた。また、武門の象徴として豊臣、徳川家から手厚い信仰を受けている。
 鶴岡八幡宮への信仰を背景に、鎌倉を中心に興った質実剛健の気風は、その後武士道に代表される日本人の精神性の基調となったとされる。
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2007/1/12


大阪天満宮 Osaka-Tenmanguu Osaka Tenmangu Shrine

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 その由来は、平安時代中期、菅原道真にまでさかのぼる。901年に政敵藤原時平により、太宰府へ左遷されることになった道真は、太宰府へ向かう途中、現在もこの地にある大将軍社に参詣した。その後没すると、疫病の流行、皇子の相次ぐ病死、清涼殿(天皇の日常生活の場所)への落雷など多くの不幸が立て続けに起きたので、朝廷はこれを道真の祟りだとして恐れ、彼の名誉を回復し贈位した。
 後の949年、大将軍社に7本の松が突然生え、霊光を放ったとの奇譚が京を駆け巡った。これを聞いた村上天皇は勅令を出し、道真を奉るための天満宮を建立させた。それが大阪天満宮である。
 現在の本殿は1843年に再建されたもの。江戸時代末期の気風が伺える権現(ごんげん)造りの境内には、津端道彦、上田耕冲などの襖絵が風情を加えている。これは、1927年の建立1025年を記念し奉納された。
 「天満の天神さん」と親しまれ、毎年7月24日に行われる天神祭は、日本三大祭、大阪三大夏祭りのひとつとして知られる。
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阿波十郎兵屋敷 Awajuuroubee-yashiki Awa Jurobe's House

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 江戸時代に爛熟期を迎えた浄瑠璃の傑作、「傾城阿波の鳴門」の主人公として知られる坂東十郎兵衛。
その屋敷は今も残され、浄瑠璃をいまに伝える建物として、この地に佇んでいる。
 約300年前の建物は、剛健な印象を残す門構え、黒松と自然石を巧みに配した元禄様式の日本庭園などともに、当時の気風を感じさせる。
 この屋敷の主であった板東十郎兵衛は、今で言えば米の「密輸」を司る、公にできない職務を務めていた。当時、各藩が米を独自に調達することは御法度であったが、阿波藩は藍作と製塩を奨励したために米が不足しており、秘密裏に十郎兵衛に調達役を負わせたのである。
 のち、彼の部下の不正が明らかとなり、藩は罪状を明らかにせぬまま、十郎兵衛を処刑することで幕府の追及を逃れた。このことが世の人の同情を誘い、彼を題材とした浄瑠璃の上演へとつながるのである
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