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2008/12/9


白川郷の田植え祭 shirakawagouno-tauematsuri 

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 白川郷の田植え祭(しらかわごうのたうえまつり)は、岐阜県大野郡白川村荻町にて、毎年五月下旬に行われている祭りである。
 ユネスコの世界文化遺産に登録されている白川郷では、特色ある合掌造り家屋郡と、その周囲に水田や畑が広がる独特で美しい景観が見られる。
 田植え祭は、白川郷観光協会が機械化で消えていく手植え風景を惜しみ、昔ながらの農村風景を残す事などを目的に、昭和六一(1986)年から始められた。
 祭りでは、紺のかすりの着物に赤いたすきをかけた早乙女姿の女性たちが、水を引き入れたばかりの田んぼで「チョボーン、チョボン」という田植え歌の調べにのせて、一列になって苗を植える。
 白川郷の田植え祭は、初夏の風物詩となっている祭りである。
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2008/11/21


鶴岡八幡宮 流鏑馬 tsurugaoka-hachimangu-yabusame 

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 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社である。祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)。
 康平六(1063)年、源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に祀ったのが始まりで、鎌倉八幡宮とも呼ばれる。
 流鏑馬(やぶさめ)は、文治三(1187)年八月一五日に鶴岡八幡宮放生会に際し、源頼朝が流鏑馬を催行した事に始まるといわれる神事で、現在は鶴岡八幡宮にて毎年九月一六日に行われている。
 鎌倉武士の狩装束に身を包んだ射手が、馬で駆けながら馬場に配された3つの的を射抜く勇壮な行事で、弓馬術礼法小笠原教場宗家の協力により、鎌倉時代さながらに執り行われている。
 鶴岡八幡宮の流鏑馬は、800年間続いている伝統的神事である。
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2008/11/18


キンニャモニャ祭 kinnyamonya-matsuri 

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 キンニャモニャ祭(きんにゃもにゃまつり)は、島根県隠岐郡にある隠岐諸島のひとつ・中の島に位置する海士町(あまちょう)菱浦にて、毎年八月の第四土曜日に開催されている祭りである。
 明治一〇(1877)年、西南戦争に従軍した菱浦生まれの杉山松太郎が、熊本の民謡「キンニョムニョ」をうろ覚えに覚えて故郷へ持ち帰ったのが最初と伝わる。
 杉山は山高帽を被りステッキを銃に模し腰に据え、自作の「キンニャモニャ」を唄いながら面白い格好で踊り満座を沸かしたという。
 杉山亡き後は踊る姿も変わり、羽織を着てキセルをふかしながらこうもり傘を持って踊られた。
 平成七(1997)年、この民謡「キンニャモニャ」にフリがついてキンニャモニャ祭が行われるようになった。以来、思い思いに趣向を凝らしたカラフルな衣装で、しゃもじ両手に1000人もが踊り歩く踊りパレードが行われ、夜には花火大会も開催されている。
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2008/11/13


三原やっさ祭 mihara-yassa-matsuri 

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 三原やっさ祭は、広島県三原市でおこなわれる中国地方を代表する夏祭りである。
 ♪見たか聞いたか 三原の城は 地から湧いたか 浮城かヨ♪
この「やっさ踊り」を中心に、八月の第二日曜日を含む金・土・日の三日間にわたり開催され、毎年約三〇万人以上の人手で賑わう。
 「やっさ踊り」の起源は古く、永禄一〇(1567)年に毛利元就の三男の小早川隆景が、小島をつないで海の上に築城した三原城の完成を祝って踊ったことがはじまりとされている。
 「やっさ、やっさ」という囃し詞(はやしことば)から「やっさ踊り」と呼ばれるようになり、以来、民の祝い事は「やっさに始まりやっさに終わる」とまでいわれるほど、地域に根付いたものとなった。
 この踊りは、踊りや歌詞、身なりにいたるまで特定の型がなく、囃しのリズムに合わせて自由な所作で奔放に踊ることが特徴。
 「足の踊り」ともいわれくらい動きのある踊りのため、見ているだけで心も躍る、底抜けに明るい祭りである。
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2008/11/12


明王寺 鬼追い・鬼踊り myouou-ji oni-oi oni-odori 

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 兵庫県神戸市には、いくつかの鬼追い行事が残っているが、垂水区名谷町(たるみくみょうだにちょう)にある明王寺(みょうおうじ)の鬼追い・鬼踊り(おにおい・おにおどり)もそのひとつである。
 鬼追いは、追儺会(ついなえ)ともいわれる寺院の年頭行事である。中国でおこなわれていた、年の終わりに悪鬼を駆逐する追儺行事が伝わり、小正月から節分にかけてその年の平穏や五穀豊穣を祈る行事をおこなうようになった。
 鬼は太郎鬼・次郎鬼・婆々鬼、4匹の小鬼が登場する。太郎鬼は木製の槌、次郎鬼は木製の斧、婆々鬼は木製の槍を持つ。小鬼たちは樫の棒を持ち、頭に白い紙の細長い紙垂(かみたれ)の束を被る。
 本堂で法要が終わると、太鼓と法螺貝(ほらがい)を合図に鬼たちが登場する。小鬼は外陣(げじん)の左右両端に分かれ、2人一組になり棒を打ち合わせ床を突く。
 外陣中央では、鬼が松明を持って登場し、内陣(ないじん)の台の上に置かれた鏡餅を太郎鬼と婆々鬼が松明で叩き、次郎鬼が中央で斧を使い、餅割をする。
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2008/11/7


掛川祭 kakegawa-matsuri 

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 静岡県掛川市の掛川祭(かけがわまつり)は、余興と屋台曳き回し、そして獅子舞が繰り広げられる祭りで、毎年10月第二週の週末に行われている。
 掛川城下の龍尾神社・神明宮・利神社・池辺神社・津島神社・白山神社・貴船神社の七社四一町合同で行われ、こうした屋台と獅子舞という組み合わせの原型は江戸時代に遡る。
 長唄・端唄・小唄等の手踊りやお囃子に合わせ、二輪屋台(にりんやたい)と呼ばれる御所車型の神輿を曳き廻し、華やかさを競い合う。
 三年に一度の干支の丑、辰、未、戌の年は掛川大祭(おおまつり)にあたり、日本一の大きさを誇る「仁藤の大獅子」をはじめ「西町の奴道中」「瓦町のかんからまち」などの三大余興が披露される。
 中でも伊勢太神楽系の獅子舞である「瓦町のかんからまち」は静岡県の無形文化財にも指定されており、江戸と上方を往来する東海道の中間点であったこの地の歴史の深さを垣間見せ、今も城下町掛川宿の文化と伝統を色濃く残している。
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2008/11/6


南京玉すだれ Nankin-tamasudare 

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 「アァ、さて、さて、さてさてさてさて、さては南京玉簾」。
 この独特の呼び込みから始まるのが、日本の大道芸の一つである南京玉すだれ(なんきんたますだれ)である。
 一人の演者が、長さ20~30数cmの竹製の小型のすだれを持ち、唄にあわせて踊りながらすだれを変化させて釣竿や橋、しだれ柳などに見立てる芸である。
 歴史のある芸で、その発祥は富山県の民謡こきりこ節に用いられるささらが原型といわれ、玉すだれを使った大道芸が現れたのは江戸期になってからである。
 正式名称は「南京無双玉すだれ」とされ、当時の大国であった明の大都市、南京の名をつけることで、芸の希少性や価値を高める意図があったとされ、南京発祥の芸ではない。
 現在町で見かけることはほとんどなくなったが、今もいくつもの保存会や流派があり、また、カルチャースクールなどでも教室が数多く開かれるなど、大道芸としての認知度はゆるぎないものとなっている。
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生玉夏祭 ikutama-natsumaturi 

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 生玉夏祭(いくたまなつまつり)は、大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)にて、毎年七月一一日、一二日ごろに行われている祭りである。
 生國魂神社は、神武天皇が国土神である生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を祀ったのに始まると伝えられる大阪最古の神社である。
 生玉夏祭は「陸の生玉」「川の天神」と並び称され、大阪の数々の夏祭りのさきがけとなっている。
 旧社地である大阪城へのお渡りが祭りの中心であり、大阪の繁栄と市民の無病息災を祈願する。
 他にも獅子舞おねり、金銀神輿おねり、子供太鼓、子供神輿、枕太鼓と賑やかで、明治~昭和初期の最盛期には、数千名を超える渡御列で賑わったという。
 生玉夏祭りは、大阪に夏を告げる盛大な祭りである。
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