NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/12


鬼室神社 Kishitsu-jinja Kishitsu Shrine

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 鬼室神社(きしつじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡日野町小野にある神社である。祭神は、鬼室集斯(きしつしゅうし)。
 鬼室集斯は、斉明天皇六(660)年、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済を復興すべく戦った鬼室福信(ふくしん)の子供である。
 百済国復興運動に失敗後、渡来した百済人であり、優れた文化人であったと言われている。
 集斯は時の天智天皇に重用され、男女700余人とともに蒲生郡に移り住んだ。
 神社の本殿裏の石祠に鬼室集斯が葬られ、祀られているところから、永享元(1429)年、この名称で創建されたとされる。
 古くは不動堂と言い、小野村の西の宮として江戸期まで崇敬された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきた。
 鬼室神社は、朝鮮渡来の亡命貴族を祀る古から続く社である。
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2007/10/18


土浦城 Tsuchiura-jyou 

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 土浦城は茨城県土浦市中央に位置した城である。
 桜川の支流を引き込み、水掘を周囲に囲ませた平城で、水に浮かぶ亀に見立て「亀城」の異名を持った。
 永享年間(1429〜41)に今泉三郎が築城した。戦国時代には小田守治が城主となるが、佐竹氏に攻められ降伏。江戸時代に入り転封が続くが、貞享四(1687)年に土屋政直が移封した後は幕末まで続いた。
 廃藩置県後廃城となり、明治一七(1884)年の火災で建物の多くが焼失した。
 現存するのは城門と櫓門で、本丸内櫓門は関東地方唯一のもの。周辺には土塁や堀が残り、往時の繁栄をうかがわせる。
 東櫓は近年復元されたもので、土浦市立博物館の一部として使われ、鯱瓦などの遺構を保存している。
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2007/9/6


長泉寺 Chousen-ji Chosenji Temple

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 長泉寺(ちょうせんじ)は、宮城県角田市角田長泉寺にある曹洞宗の寺である。本尊は釈迦牟尼仏。
 高源山または六国峯と号し、千葉県市川市総寧寺を本寺とする東北屈指の名刹である。
 永享八(1436)年、磐城国三芦城主・石川持光を開基とし、即庵宗覚禅師を開山として福島県石川町に創建された。
 石川氏の篤い外護を受けるが、豊臣秀吉の奥州仕置による石川昭光の角田移封にともない、慶長三(1598)年、寺籍を角田に移転し、現在地に長泉寺を移建した。
 本堂のほか客殿・位牌堂・書院・庫裏・表門・中門・鐘楼などを備え、中門はもと角田城の内門を移転したもの。
 本堂奥の霊屋(おたまや)には、石川昭光の木像と殉死七士像が祀られている。
 長泉寺は、石川氏ゆかりの落ち着いた古刹である。
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2007/6/26


阿吽寺 Aun-ji 

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 阿吽寺(あうんじ)は、北海道松前郡松前町にある高野山真言宗の古刹。
 開基は室町時代の永享五(1434)年。蝦夷地における最初の寺院と言われている。阿吽寺の名は、真言密教の奥義「阿吽の呼吸」に由来するとか。
 寺には弘法大師作と伝わる不動明王のほか、江戸期作の曼荼羅がある。不動明王像の光背に慶長九年と銘打たれているが、この時期の不動明王像は作品が少なく、大変歴史的価値の高いものである。この像は北海道の有形文化財に指定されているが、現在一般公開はされていないという。
 北海道では、四国のお遍路に倣い平成十八年に北海道の八十八箇所巡りの霊場を定めたが、この阿吽寺は第57番目の札所に数えられている。
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2007/4/12


向上寺 三重塔 Kojo-ji sanjyu-no-tou Three-story Pagoda at Kojoji Temple

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 室町時代・永享四(1432)年建立の塔。信元・信昌を檀那として建立された。
 この塔は三間三重塔姿本瓦葺で相輪先端までの高さ19メートルを数える室町時代の代表的な建造物で、非常にまとまりの良い優秀なできばえである。肘木の先のみごとな彫刻、すみ木の下の組み物、美しい相輪の水煙など見ごたえがあり、特に各階層の高欄を支える四隅の親柱の飾りつけが逆蓮華になっていることや、須弥壇高欄親柱が唐様で、二重開花蓮の上に宝珠があるのも珍しい手法である。
 また、この時期の瀬戸内海地域で流行した、蓑を長く垂らす優美な蓑束を用いており、中世の建築文化の高さを示す代表的な塔婆である。
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2007/3/19


平井城跡 Hirai-jyou-ato Hirai Castle Ruins

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 平井城は、現・群馬県藤岡市を流れる鮎川左岸の断崖上に所在した城である。
 室町時代の永享十(1438)年頃に、関東管領、上杉憲実により築城されたといわれる。後に小田原の北条氏康に攻められ落城、その後越後の長尾景虎(上杉謙信)が奪還したが、景虎は関東における拠点を前橋城に移したため、平井城は廃城にした。
 平成七年から平井城跡の発掘調査が行われ、15世紀中頃から16世紀後半の遺物が出土した。土塁や横堀、堅堀、橋脚台跡、掘立柱建物跡、竪穴状遺構、厠跡などが発掘され、歴史的価値のある史跡として
 県指定の史跡にもなっている。
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茂木城跡 Motegi-jyou-ato Motegi Castle Ruins

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 鎌倉時代初頭の建久八(1197)年の築城。宇都宮氏の二代目、宇都宮宗綱の弟、八田知家により建てられ、ここを本拠地として茂木(もてぎ)氏を名乗った。
 茂木氏は、足利尊氏、鎌倉公方に従い、永享十二(1440)年には鎌倉公方の足利持氏の子春王丸、安王丸が茂木城に挙兵、結城合戦の因にもなった。しかし、永禄九(1556)年に佐竹氏に攻められ落城。以降、佐竹氏に従った。
 天正十三(1585)年には北条市に攻められ再び落城。しかし十八代治良の時代に返り討ちを遂げ、常陸小川城(現茨城県)に居城を移す。茂木城には佐竹氏の配下である須田氏が入城。
 茂木城は、現在では城山公園として整備され、市民の憩いの場となっている。春には桜やツツジが咲き乱れ、夏には新緑が美しく、秋にはヒガンバナが咲き、紅葉で山を染め上げる。
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2007/3/7


結城城 Yuuki-jyou 

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 結城城は茨城県結城市に位置した城である。
 治承年間(1177〜1180)に結城朝光によって築かれたと伝えられる。
 永享十二(1440)年、関東公方と関東管領の対立により起きた結城合戦の際、当時の城主、結城氏朝は鎌倉幕府に敵対。結城城は主戦場となり、鎌倉幕府軍十万を相手取り、十ケ月の篭城を続けた。関東最大の合戦となったこの戦いは、戦国時代の前兆でもあった。
 結城氏はその後復興し、関ヶ原の戦いの後に転封。結城城は一時廃城となるが元禄十三(1700)年に水野家が再興し、幕末まで続いた。
 現在は周囲を水田に囲まれ、城址に残る土塁や空堀が往時の空気を僅かに留めている。
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