NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/12


乱箱 Midare-bako 

Jp

 乱箱(みだればこ)とは、香道において最低限必要な道具を入れておく浅い箱である。
 仏教と共に日本に伝えられた香は、平安時代には個人の趣好、知的感覚により薫物が作られ、室町時代・東山文化隆盛の頃、香木を使用する聞香形式が整えられた。
 香を聞くために最低限必要なものは、香木とそれを暖める道具で、乱箱は、点前に必要な香道具を納めて香席に据え付けておき、そこから地敷に香道具を並べるための蓋のない箱である。
 乱盆(みだれぼん)ともいい、蒔絵のものが多いが、桑生地を使用するものもある。
 中には手記録紙(てぎろくし)と手記録盆(てぎろくぼん)、銀葉盤(ぎんようぽん)、火道具(ひどうぐ)と香じ建(きょうじたて)、重香合(じゅうこうごう)、総包・惣包(そうづつみ)、聞香炉(もんこうろ)などが入っている。
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2008/9/11


瀬戸焼 Seto-yaki 

Jp

 瀬戸焼は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称で、東日本で非常に広く流通し、瀬戸物という言葉が陶磁器の代名詞になっているほどである。
 平安時代末期以降、中国陶磁器の影響を受け、釉薬(ゆうやく)を施さない「山茶碗」が主流となる中、瀬戸窯では鎌倉時代初期から室町時代中期にかけて、釉薬を器面全体に施した陶器生産が行われていた。この時代の製品には優美な印花文や画花文が描かれたものが多く、「古瀬戸」と呼ばれる。
 その後は椀、皿、鉢といった日用雑器の生産が多くなり、生産拠点も次第に美濃へと移って行った。瀬戸焼は江戸時代に衰退するが、文化年間(1804~1818年)に加藤民吉親子が磁器の製造法を九州で修行して瀬戸に帰り、その技術を伝えたことによって、瀬戸地方特有のやわらかな味わいを持った磁器が完成。陶磁器の主流となって現在まで全国に広く伝わっている。
 瀬戸焼のうち「赤津焼」と「瀬戸染付焼」が、経済産業大臣により伝統的工芸品に指定されている。
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2008/9/10


京印章 Kyou-inshou 

Jp

 京印章(きょういんしょう)は京都で作られる印章(判子)のことである。
 印章は、聖徳太子の飛鳥時代に中国から伝わったといわれ、大宝律令で国の制度に印章が取り入れられた。
 京都では平安時代になると天皇の印などが作られるようになり、時代とともに印章は天皇、公家、武士、豪商と使われるようになっていった。
 江戸時代に日本最初の印半師が京都三条に住んでいたといわれる。その後、京都では数多くの印半師が活躍し、京印章は芸術的にも優れた文化として現在に受け継がれている。
 京印象は中国の漢の時代の作風を引き、当初は、書体が中心であったが、平安時代後期には風雅を好む花印(かおう)も多様されるようになった。
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薙刀 Naginata 

Jp

 薙刀(なぎなた)といえば、現代では女子の武道であるが、古来より戦での武器として使われていた。
 薙刀の歴史に関しては不明な点が多く、起源も定かではない。平安時代中期に平将門と藤原純友によって起こされた承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)の合戦絵巻に薙刀らしき長刀が描かれている。戦において長刀は人馬を薙ぎ払うのに有効であり、改良が加えられ長刀よりも扱いやすい薙刀に変化していったと考えられる。
 その後、僧兵の多くが薙刀を使用し、源平の戦いでは主要な武器となった。かの有名な武蔵坊弁慶も薙刀を武器としている。
 戦国時代に入ると槍がその機動性から薙刀にとってかわり、江戸時代に入り戦が無くなると、薙刀は婦女子の心身を鍛える武道として武家社会に定着していった。
 明治以降は廃刀令のため、武器としての薙刀は無くなったが、明治中期には人間修養のための武道として復活し、太平洋戦争時代には学校教育の中に薙刀は取り入れられた。
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