NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/18


大浦太鼓踊り Ooura-taiko-odori 

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 大浦太鼓踊り(おおうらたいこおどり)は、鹿児島県南さつま市大浦町の日新祠堂(じっしんじどう)にて、毎年八月一五日のお盆に奉納されている踊りである。
 日新祠堂は、永田・吉見家の庭内にある、戦国時代の薩摩領主・島津忠良の位牌を祀る場所で、祭神は日新公の別名もある島津忠良。
 踊りの起源・起因はよく分かっていないが、忠良が大浦へ遊行した際に供覧に添えたとか、忠良自身が振り付けしたとか、それ以前から存在したなど諸説ある。
 踊りは、鉦2人、小太鼓2人、歌い手3人、大太鼓16人で構成され、大太鼓は白装束で太鼓に背旗、鉦・小太鼓・歌は花笠のかぶりものをして踊る。
 当日はまず日新祠堂に奉納し、西福寺で戦没者を慰霊して踊り、その後いつくかの集落にて踊る。
 大浦太鼓踊りは、地元では盆踊(ぼんのおどり)とも言われる郷土芸能である。
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2007/2/16


尾浦城 Oura-jyo Orajo Castle

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 尾浦城は、山形県鶴岡市大山にあった城である。
 尾浦城は高館山から東側に延びた丘陵尾根先端に位置する平山城であったという。
 武藤氏が天文元(1532)年、大宝寺城から大浦に移り築城したのが始まりとされる。
 武藤義氏は上杉謙信の力を背景に庄内を平定したが、東禅寺義長の謀反により自害した。
 以後、武藤家、上杉家、東禅寺家による陣取り合戦が続き、尾浦城所有者は次々と入れ替わった。
 慶長五(1600)年、庄内は最上義光領となり、尾浦城は再建され「大山城」と改名された。
 元和八(1622)年、最上氏改易で廃城になる。
 現在は、鶴岡西高校前の大山公園が城跡となっている。
 尾浦城は、戦乱により次々と主君が替わった城であり、まさに戦国時代の象徴といえる。
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2007/1/26


堀越城 Horikoshi-jo Horikoshi Castle

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 弘前藩の基礎を築いた津軽為信(つがるためのぶ)が津軽統一の根拠地として利用し、大浦城から居城を移した文禄三(1594)年から、慶長十六(1611)年に二代藩主、津軽信枚(のぶひら)が現在の弘前城に移るまでの間、弘前藩の中心となった城。
 昭和六十(1985)年11月に国史跡指定を受け、現在は、史跡公園として整備するために、平成十(1998)年から継続して発掘調査が行われ、建物の柱のあとや、青磁・白磁、漆器などが出土している。
 現在は熊野神社の境内となり、国道7号が城を分断しており、神社の中に入り込むと、そこは主郭らしいつくりで土塁が積み上げられ、空堀の跡もよく残っており、古城という雰囲気が醸し出されている。
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浪岡城 Namioka-jo Namioka Castle

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 1460年代に浪岡北畠氏によってつくられた。
 1500年代前半の最盛期には、京都と盛んに交流し、寺社を建立するなどしているが、1562年におきた親族間の争いにより勢力が衰え、1578年に大浦(津軽)為信に攻められ落城した。
 以後約400年、城跡は畑や水田として使われ、昭和15年2月10日、青森県で初めて国史跡指定を受けた。
 特徴的な構造として、幅20m、深さ5mほどの二重堀で分けられた8つの館(郭)が扇のように広がり、土塁の上を通路としても使用している。城全体を迷路化し、守りを強化しようとしたものと考えられる。
 また出土品として、食器や調理器具・武器類・農耕具・日用品・宗教用具・建築関係用品など様々なものが4万点以上も見つかっている。
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大浦城 Oura-jo Ora Castle

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 文亀元(1502)年津軽氏の始祖、種里城の城主大浦光信が築いた城。
 その後、五代為信が堀越城に移るまで、四代九十二年に渡り大浦氏の居城であった。大浦城を拠点に津軽平定を成し遂げた為信は、文禄三(1594)年に居を堀越城に移し元和の一国一城令により廃城。
 津軽為信が堀越城(弘前市)に移るまで、城下町として栄え、当時城下には、多くの町家・寺院・神社があった。
 城は本丸・二の丸・三の丸・西の丸からなり、それぞれ堀をめぐらし土手を築いていたようで、昭和初年頃まで、旧跡は、比較的よく残っていた。その後、本丸・西の丸跡、二の丸跡、南郭・西郭はすでに別のものに姿を変えてもう残ってはいない。
 この城の遺構としては、城の台所が弘前市の長勝寺に移され、庫裏となって往時をしのばせている。
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2006/12/18


大浦天主堂(国宝) Ooura-tensyu-dou Ooura Cathedral, National Treasure

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 大浦天主堂は、教会として日本で唯一国宝建築物に指定されており、現存する日本最古の木造ゴシック様式の教会である。正式名称は「日本26聖人殉教者天主堂」と呼ばれ、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され1597年長崎の西坂の丘で日本人20名、外国人6名の聖人が処刑された。後に1862年ピオ9世教皇により彼ら聖人の尊称を献上されて、カトリック全教会信者の尊崇をうけることになった聖殉教者達に捧げる為に、フランス人司祭ベルナール・プチジャン神父により建立された。建築当初は三本の塔を持つゴシック風のつくりながら、正面中央の壁面はバロック風で、外壁はナマコ壁という特殊なスタイルであった。1879年に増築され、外壁をレンガ造にあらため、完全にゴシック風の建物になった。
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