NIPPON Kichi - 日本吉

記事数46件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/8/22


池上本門寺 五重塔 Ikegami-honmon-ji Gojuu-no-tou 

Jp

 池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗大本山の寺院である。本尊は、日蓮像。日蓮聖人霊跡とされている。弘安五(1282)年、ここで日蓮が最後の日々を過ごして死去し、日朗によって開基された。
 五重塔(ごじゅうのとう)は、慶長一二(1607)年、将軍・徳川秀忠の乳母である正心院日幸尼の発願で祖師堂前に建立され、関東では最古の塔とされる。元禄一六(1703)年、現在地に移築される。
 高さ29m、全面赤色塗料のベンガラ塗り、建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。塔は基壇上に建ち、高欄のない縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間雲板様盲連子窓、中備えは三間とも十二支の彫刻のある蟇股となっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/5/22


明石城(喜春城) Akashi-jou(Kiharu-jou) 

Jp

 兵庫県明石市の「明石城(あかしじょう)」は、明石藩主となった小笠原忠真が、元和三(1617)年に幕府の援助と岳父にあたる播磨姫路城主の本多忠政の協力により築城した。
 譜代大名の居城としてふさわしい城郭を建設する様、ニ代将軍徳川秀忠の命により、伏見城や三木城、船上城の遺材が使用され着工し、ニ年後の元和五(1619)年におおむね完成した。寛永九(1632)年、忠真は肥後熊本の加藤家改易に伴う細川家の移動で、外様大名から幕府を守る為の橋頭堡(きょうとうほ)として豊前小倉へ移る。その後、松平(戸田)、大久保、松平(藤井)、本多と城主は変わる。天和ニ(1682)年、松平(越前)直明が越前大野から六万石で入封し、松平(越前)家が十代続き明治を迎える。
 巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)が国指定の重要文化財になっており、中堀の内側は明石公園として整備され、さくらの名所としても知られている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/4/4


愛知 洞雲院 Aichi Touun-in 

Jp

 洞雲院(とううんいん)は、知多半島の阿久比町(あぐいちょう)にあり、徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた)の遺髪墓があることで知られる。
 平安時代の天暦二(948)年に、菅原道真の孫である雅規(まさのり)が開基となり、洞雲院の前身である天台宗の久松寺を創建。その後、子孫の久松定規が再建したと言われる。久松家は「於大の方」の再婚先であり、近くには久松氏の居城だった阿久比城址がある。
 毎年三月一六日、洞雲院では「おせんぼ」と呼ばれる観音懺摩法会(かんのんせんまほうえ)が行われる。「おせんぼ」は、於大の方が「戦国の女性の哀しみが二度とおきないように」と、洞雲院で女性の幸福将来を祈願したのが始まりと言われている。
 
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/2/22


賤機焼 Shizuhata-yaki 

Jp

 賤機焼(しずはたやき)は、静岡県静岡市の民窯で焼かれる陶器。江戸時代初期に太田七郎右衛門によって創始され、徳川家康より徳川家の御用窯として朱印地と賤機焼の称号をもらい、数百年にわたって繁栄した。しかし、文政一一(1828)年に安倍川の洪水によって窯場が流失。以後は衰退の一途をたどった。
 明治に入り、太田萬二郎によって再興が試みられるも往年の勢いは戻らず、県が郷土産業として青島庄助を招き再興に乗り出すと、二代目五郎が常滑の技術を、三代目秋果が南蛮手という技術を採り入れるなど尽力し、地方色豊かな焼き物として生まれ変わった。現在は四代目が継承している。
 なお、わずかに現存する江戸時代の賤機焼には「鬼福」と呼ばれる意匠が残されている。これは、徳川家康が三方原合戦で武田軍を駆逐した際に「鬼は外、福は内」と叫びを上げながら戦い勝利したという逸話にちなんでいる。
 静岡という穏やかな風土に育まれ、長い時を経て独特な味わいを備えてきた賤機焼は、使う人の手に馴染みやすく、温かく、優しい。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/22


阿伎留神社祭礼 Akiru-jinja-sairei Akiru Shrine

Jp En

 阿伎留神社(あきるじんじゃ)は、東京都あきる野市五日市にある神社である。祭神は、大物主神(おおものぬし)。
 創立起源は未詳であるが、平安時代の延喜式神名帳には武蔵国多摩郡八座の筆頭に上げられ、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などからも崇拝されていた社である。
 阿伎留神社祭礼(あきるじんじゃさいれい)は、毎年九月の二八日~三〇日にかけて行われる、秋祭りとなっている。
 祭礼には間口五尺の方形大輪に六角形の胴と、屋根を乗せたきらびやかな御本社大神輿が繰り出し、五日市街道を勇壮に練り歩く。
 また、神輿の担ぎだしの前には必ず露払いとして獅子舞がつき、舞を一庭演じるのが習わしとなっている。
 阿伎留神社祭礼は、江戸時代から連綿と続く、秋川渓谷沿いで行われる由緒正しい祭りである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/15


一之宮 貫前神社 Ichinomiya Nukisaki-jinja 

Jp

 上野國一之宮。延喜式神名帳では名神大社に列する。
 一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の開基については諸説あるが、安閑天皇の元(531)年頃と言われ、一般に多胡碑(たごひ)などで知られる甘良(甘楽)の谷の帰化人集団が祀ったのが始まりと見られている。
 赤城神社から一之宮の称号を譲られたと言われ、渡来系氏族による古代上毛野國征服を表すとも伝えられる。
 もとは貫前神と抜鉾神(ぬきほこのかみ)の二社二神であったが、両社が一社と混同されるようになったので明治に入り貫前神社と名乗り、戦後の社格廃止に伴い一宮貫前神社と改称したと言われる。
 参道を上り正面の鳥居をくぐって急な石段を下ったところに社殿が有る、という特異な構えが特徴で、勅額鳥居の東隣等に神宮寺跡の石垣が残る。社域は約九万平米。総門から見下ろす朱塗りの社殿と社叢の調和には息を飲む。
 寛永一二(1635)年に徳川幕府によって造営された、本殿、拝殿、楼門は重要文化財に指定されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




織部釉 Oribeyuu 

Jp

 戦国武将・古田重然(ふるたしげてる)は、徳川家に仕えた武将でありながら優れた茶人として「古田織部(ふるたおりべ)」という名前で知られ、茶器製作をも手掛けたという。その織部が美濃窯で焼かせた斬新で個性的な作品は、織部の名前に因んで「織部焼」と名づけられた。
 織部焼には赤、黒、青などがあるが、青織部に施されている釉薬(ゆうやく)は、織部の名前に由来して織部釉と名づけられ、織部焼の代表的なものとされている。
 織部釉は高火度釉に分類される緑銅釉で、一二〇〇度以上の温度で溶けて酸化焼成によって緑色になるという。
 「織部好み」という流行をもたらしたと伝えられている、斬新で奇抜ともいえる形や色使いは、桃山時代の人々を大いに魅了したといわれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/26


羽村 阿蘇神社 Hamura Aso-jinja 

Jp

 東京都羽村市内を流れる多摩川。
 その多摩川そばの崖上に佇む古社が、阿蘇神社(あそじんじゃ)である。
 その創建は西暦601年、推古天皇の御代に、推古天皇本人によるものとされる。また、承平三(933)年には平将門が社殿を造営したとも、その将門を討った藤原秀郷(ひでさと)が造営したとも言われている。その後は徳川家康が参詣し、続き家光、綱吉、吉宗など、徳川将軍家からの朱印状が続くこととなる。
 境内には藤原秀郷が手植えしたといわれる椎の大木があり、東京都の天然記念物に指定されている。
 その樹齢は八百年とも千年とも言われるが、樹勢は盛んで、将門伝説を今に伝えている。
 都の有形文化財に指定されている本殿は、一間社流造のこけら葺きの屋根など、神社建築として歴史的価値も高く、長い歴史と文化の歩みを感じさせる荘厳なものである。
 四季折々の風情豊かな地に鎮座する古社は、訪れる人々を悠久の歴史の旅へと誘ってくれるだろう。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数46件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter