NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/29


【史】 Shi History

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 歴史の「史」という学問関係の漢字ですが、史の意味の背景は案外に知られていません。中国では、歴史執筆は非常に早い文明の段階からありました。このことはこの字と深くかかわっています。初字体が甲骨字に遡るのもそのためです。
 信・吉・哲などと同じように、ここにも上の口の部分は祝詞の器です。この祝詞の器に木をつけて手で持つ姿を象っています。これは王の祖先の霊を祭る儀式の姿です。「史」には、祭ると同じく、史る(まつる)という読みもあります。「史」は祭り自体の意味から、祭りを行う仕事をする人という意味に転じました。昔の中国の社会は今のような民主主義的な祭政分離の原理に基づいている世界ではありません。祝詞を運んだり持ったりという役割は、聖職者に似合う宗教的な仕事であると同時に、宮内省の公務員的なお勤めのようでもありました。
 使・事は同じ系統の字です。王の祖先礼拝は社会全体の祖先礼拝の手本となり、その記録(史(ふみ))は歴史そのものといえましょう。

■ 史・金文(きんぶん)
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2007/12/20


【寛】 Kan Tolerance, Leniency

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 いわゆる会意文字です。まず上部ですが、ほかの字にもたくさん見られる宀(ウ冠、うかんむり)はただの屋根を表しているのではなく、霊廟(れいびょう、みたまや)の屋根です。この部分がアジアの宗教文化の基礎となっている祖先供養と祖先礼拝を表しています。
 歴史に見られるアジアの長い平和の秘訣は、このような漢字にも含まれています。祖先の恵みを思うことで人生の困難に耐えることが可能になり、心が広くなります。自分とは異なる考え方、人生観を持っていた祖先を思いますと現在の自分と正反対の生き方や信念を持つ人に対しても、もっと寛容になることができて、人生の本質が見えてきます。
 下の部分は廟(みたまや)で儀式を勤めている巫女です。神道にも巫女が神がかりになる儀式はよくあります。巫女が緩やかになり、神のお告げを伝えます。その時の巫女の姿は、目が強調されてその上に常用漢字には草冠の形になってしまった呪飾も象っています。巫女の寛和な振る舞いだけでなく、それと切り離せない儀式に参加している家族の祖先を敬う心と気持ちも字の意味に寄与していると考えられます。
 
■ 寛・篆文(てんぶん)
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2007/2/12


大樹寺 Daijyu-ji 

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 大樹寺は、愛知県岡崎市にある浄土宗の寺院。徳川家の菩提寺であり、歴代当主の墓や位牌主の身長などが記されている歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。
 1475年松平親忠が創建したといわれる。1535年清康(家康の祖父)が多宝搭(国の重要文化財指定)を建立。位牌などの墓は、家康が1602年に先祖8代の墓碑をたてたのが始まりとされている。
 過去の有名な話としては、1560年家康は、桶狭間の合戦で今川勢につき、相手方の織田信長に、奇襲され敗れたとき、命からがら逃げ帰ったのがこの寺だったという。先祖の墓の前で、自害しようとしたとき、この寺の住職であった登誉上人から止められ、思いとどまったということである。
 観光地としても有名で、1年を通じて賑わいを見せている。
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伊賀八幡宮 Iga-hachiman-guu Iga Hachimangu Shrine

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 愛知県岡崎市にある神社。
 その歴史は、徳川家の先祖である松平親忠が15世紀後半に子孫繁栄のため、守護神として創建したのが始まりである。
 徳川幕府3代将軍家光は、この神社に東照大権現(徳川家康)を合わせ祀った。
 また、本殿の増築したものが現在の権現造りの御社殿であり、これも家光がおこなったものである。徳川家のこの神社への思い入れが垣間見られる。
 当時、この神社の鳥居を動かしながら、戦が近いことを町民たちに知らせ、士気の鼓舞に利用したという。
 御社殿は極彩色の立派なもので、国宝に指定されている。隋神門や石橋は国の重要文化財に指定されている。
 家運隆盛、事業発展、厄除開運などのご利益があり、参拝者で年中賑わっている。
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2007/1/29


常忠寺 Jouchu-ji Jochu-ji Temple

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 戦国時代に豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前の九州六ヶ国を支配した豊後のキリシタン大名、大友宗麟の先祖、大友家初代能直の墓所。
 落雷に打たれて半身不随になっても輿に乗り指揮を取り、宗麟の家中第一の武将とされた鎧岳(よろいだけ)城主、戸次鑑連 ( べっきあきつら)の菩提寺。
 一時廃絶していたが宝永年間(1704〜1710)に本田善輝が再興、その後火災で炎上したが文化三(1806)年善輝の曽孫により修復し、存続される。
 40種もの花菖蒲が植えられ、毎年5月には「常忠寺しょうぶ祭り」が行なわれる。夏の夜には蛍の観賞も出来る。
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2007/1/24


総持寺祖院 Soujiji-soin Soujiji Soin (Soujiji Temple Ancestral Building)

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 正式名称は諸嶽山總持寺。かつて曹洞宗本山として、全国の一万数千寺の八割近くを統括していた。
 今から約七〇〇年前、享元年(1321年)瑩山紹瑾禅師によって開山。その翌年後醍醐天皇の勅願所として「曹洞宗賜紫出世第一の道場」となった。
 寺は盛運を極め、時代の権力者からも寺領を寄進され、末寺も増加の一途であったが、戦国時代に消失した。
 江戸時代に入り、前田家による再興が進む。元和元(1615)年には、徳川幕府の祈願所ともなった。七〇余りの伽藍堂宇を備え、全国から修行僧が集まった。
 明治三一(1898)年、大火が再び総持寺を襲い、七堂伽藍のほとんどを消失した。その後、本山を横浜鶴見に移し、現在は祖院として、復興を遂げている。
 約二万坪の境内には、山門、仏殿などが再建され、古刹の威厳あるたたずまいを見せている。
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2007/1/18


金沢神社 Kanazawa-jinjya Kanazawa Shrine

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 加賀藩主であった前田家は、菅原道真を先祖としている。その菅原道真を祀って、十一代藩主前田春脩(はるなが)が、寛政六(1794)年に建立したのが金沢神社である。
 この時期、春脩は、藩校、明倫堂を創始しているが、その鎮守神として道真を祀ったのである。
 明倫堂は、兼六園建設のため移動したが、鎮守神は残った。そのため十二代藩主前田斉広が建てた竹沢御殿の鎮守神として、竹沢御殿御鎮守天満宮と称した。金沢神社と改称されたのは、明治九(1876)年のことである。
 県内で一番の受験の神社ということで、合格祈願の受験生たちがたくさん詣で、必死に祈念する姿は印象的である。
 また神社内には、金沢の地名の由来となった、金城霊沢がある。その池の周りを三回巡りお願いをすれば願いが叶う、といわれている。
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