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2008/7/17


札幌市時計台 Sapporo-shi-tokeidai Sapporo Clock Tower.

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 札幌市の時計台は、札幌農学校の頃、生徒の心身を鍛え兵式訓練などに使う目的で「演武場」(体育館)として1878年に建設された。今では「時計台」の愛称で知られ、多くの人に親しまれている。
 正式には「旧札幌農学校演武場」という名称で、北海道大学の前身である札幌農学校の一施設であった。建設当初は時を知らせる鐘楼だけで、時計は設置されていなかったが、1階を研究室として利用していて振動で実験に不具合が出た事から1881年に設置された。1888年には札幌標準時の時計に指定されている。
 1903年に農学校が現在の北海道大学の場所に移転し、そのままにされていたが、1906年に札幌区が買い取り、解体せずに曳家で現在地に移転した。
 札幌市民に守られてきた時計台は、1970年に国指定重要文化財に指定され、1995年から4年間に亘って修復工事が行われて、展示室や貸しホールとして活用されている。
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2008/1/8


落合の石畳 Ochiai-no-Ishidatami Stone-paved Road in Ochiai

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 落合の石畳(おちあいのいしだたみ)は岐阜県中津川市落合に残る石畳である。
 江戸時代の五街道、中山道(なかせんどう)の落合十曲峠から馬籠宿にかけては急峻な山道の為、通行が困難であったことから石畳を敷き、整備が行われていた。文久元(1861)年、皇女和宮が降嫁した際改修したとの記録が残る。
 明治時代に入り、一部が工事のために剥がされ、一部は使用されなくなり放置されたため、旧状を留めたのは一部となったが、昭和六三(1988)年に修復工事が行われ、現在の840メートルの道が復元された。
 近隣には中山道の史跡である落合宿の本陣や大釜、島崎藤村の筆による「是より北木曽路」などが残り、古道の記憶を今に伝えている。
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2007/10/15


満濃池 Mannou-ike Manno-ike Pond

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 満濃池(まんのういけ)は香川県仲多度郡満濃町にある、日本最大の灌漑用のため池である。別名・満濃太郎とも呼ばれており、貯水量1540万トンの大きさを誇っている。
 大宝年間(701~704)、讃岐の国守であった道守朝臣(みちもりあそん)の創築と伝えられている。しかしその後池は決壊、長い年月の間放置されたままであったが、弘仁一ニ(821)年に空海がわずか三ケ月たらずで修復拡大した。その労力もむなしく、満濃池はその後も決壊を繰り返した。
 寛永ニ(1625)年に生駒讃岐守は、家臣であり土木工事の名人である西嶋八兵衛に修復を命じた。八兵衛は期待に応え、寛永八(1631)年に完成させたが、その後も大地震などで池は数回に渡り決壊、その都度、多くの人々の努力によって修復されてきた。
 現在の満濃池は昭和三四(1942)年に完成したものである。
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2007/9/28


羽村の堰 Hamura-no-seki 

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 多摩川にかかり、東京の羽村市から新宿区にまで生活用水を運ぶ玉川上水。その玉川上水の出発点となるのが、羽村の堰(はむらのせき)である。
 江戸時代の生活用水不足から新しい水道を作る必要に迫られ、承応二(1653)年、庄右衛門(しょうえもん)と清右衛門(せいえもん)の玉川兄弟によって玉川上水の工事が始まる。その際、多摩川を堰き止め、水を導き入れる役割を果たす堰として建設されたものだ。
 固定堰と、堰止めを解除できる投渡堰(なげわたしぜき)の二つで構成されており、現在もこの二つの仕組みを利用している。
 周辺は整備され、江戸時代に上水の管理を行っていた陣屋の門が移築されるなど、周辺住民の憩いの場所にもなっている。
 また、堰周辺から玉川上水べりにおよそ五百本の桜の木が植えられ、シーズンともなれば多くの人が繰り出し、咲き誇る桜と水の流れの調和を楽しんでいる。
 江戸時代からの水の歴史とその偉業を今に伝えながら、堰は今も水と共に人々の心を潤している。
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2007/9/11


追波川 Oppa-gawa 

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 岩手県の御堂の湧水「弓弭(ゆはず)の泉」を源流とし、岩手県のほぼ中央を北から南に流れて宮城県に入り、そして石巻湾へと流れ出る東北随一の大河、北上川。
 その北上川の河口付近にかかり、河北町から東流、やがては南三陸の追波湾へと注ぐ延長17.5kmの流れが、追波川(おっぱがわ)である。
 明治四四(1911)年から昭和九(1934)年にかけて行われた、放水路建設工事によって誕生した流れであり、区別してそれまでの北上川を旧北上川、追波川を新北上川とも呼ぶ。
 現在では、以前からあった石巻湾への流れを旧北上川といい、この追波川を含む追波湾への流れを北上川と称している。
 春になればサクラマスを求める太公望で賑わいを見せ、秋になれば日本の川では最大級といわれる葦(ヨシ)原で、「残したい日本の音風景百選」にも選ばれた、葦の葉ずれが奏でるシンフォニーに耳を傾けることもできる。
 川は豊かな自然を満面に湛えて、今もゆったりと、東北の地を流れている。
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2007/9/6


遠見塚古墳 Toomizuka-kofun Toomizuka Kofun

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 遠見塚古墳(とおみづかこふん)は、宮城県仙台市若林区遠見塚にある古墳である。国の史跡に指定されている。
 4世紀末~5世紀初頭頃に建築された、全長110m、高さ6.5mの東北地方で5番目の規模を持つ前方後円墳である。
 前方部が後円部に比べ著しく低いのが特徴であり、周囲には幅10数m~40数mの不規則な形の周濠が巡っている。
 副葬品は、東榔から碧玉製管玉1点、ガラス小玉4点、竹製黒漆塗り竪櫛18点が出土しただけで、古墳の規模に比べ極めて少ない。
 占領米軍が霞目飛行場拡張工事に使う土を取る時に、後円部の半分が破壊された。
 現在は公園として整備・保存されており、仙台市博物館にて出土品を保存・展示している。
 遠見塚古墳は、日本の古代に触れられる貴重な史跡である。
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2007/8/7


仙台 東照宮 Sendai Toushou-guu Toshogu Shrine in Sendai

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 宮城県仙台市にある仙台東照宮(せんだいとうしょうぐう)は、仙台藩二代藩主・伊達忠宗が創建した、東照大権現である徳川家康を祀る神社だ。
 大水害に見舞われた仙台藩に銀五千貫を拝借したことの返恩として、忠宗が三代将軍・家光公に勧請したことにより、慶安二(1649)年から工事をはじめ、五年後の承応三(1654)年に完成することとなった。
 天正十九(1591)年、家康が葛西大崎一揆視察の帰途、仙台藩祖・政宗公と宿陣された地と伝えられていたことから、徳川家と縁のある現在の場所に創建が決まった。以来伊達家の守護神として祀られ、塩竈神社(しおがまじんじゃ)に次いで、仙台藩の手厚い保護を受けることとなる。
 どれもが歴史的にも大変重要であるため、本殿、唐門、透し塀、石鳥居、石燈篭、随身門が国の重要指定文化財に指定されている。それら入母屋造の美しい社殿は全国的に知られており、徳川家康の命日である四月十七日には春の例祭が催され、今も多くの人で賑わっている。
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2007/7/13


美々貝塚 Bibi-kaizuka The Bibi Shell Mounds

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 美々貝塚は、北海道千歳市にある標高20mほどの台地で発見された約6000年前の縄文前期の貝塚だ。
 大正末期にこの近辺で行われた鉄道路線工事の際に見つかった。
 貝塚自体は当時の人たちが採取したシジミやアサリなどの貝殻が同じ場所に捨てられ、積み上げられて出来たものだ。
 それはつまり、この近辺が海のすぐ側であったことを表している。
 この周辺に人々が暮らしていた当時は気温の温暖化により、今よりも海面がずいぶんと高かったのではないかと論じられてきたが、この美々貝塚の発見は、それらを証明する重要な遺跡として知られている。
 直径4m、高さ1.2mにもなる大きな貝塚であるが、北海道内ではもっとも内陸に位置し、ヤマトシジミやアサリなどを中心に14種類の貝類や土器などが見つかっている。
 いうなればここは、6000年前の人々の暮らしが封じ込められた壮大なタイムカプセルなのである。
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