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2007/11/28


新海三社神社 三重塔 Shinkai-sansha-jinja Sanjuu-no-tou 

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 長野県佐久市にある新海三社神社(しんかいさんしゃじんじゃ)は、古くより佐久三庄三十六郷の総社であり、武神として源氏の崇敬厚く、武田信玄ゆかりの神社としても知られている。永禄八(1565)年の上州箕輪城攻略の際に、信玄が奉納した戦勝祈願の願文が残されている。
 この神社の広大な境内にある三重塔は、新海三社神社の神宮寺の塔として、永正一二(1515)年に建立されたと伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
 塔の一番下の屋根を支える垂木は、扇状に木を張った禅宗様、二段目、三段目の屋根の垂木はまっすぐに木を張った和様の建築様式が用いられており、初重と二、三重の垂木の方向が違っている。禅宗様、和様と両方の建築様式が取り入られ、近世の様式の折衷化の兆しが伺える
 明治維新の廃仏毀釈の際に、それまで神社にあった多くの仏教施設は破却の難にあったが、幸いにもこの塔は、神社の宝庫としてその難をまぬがれ、今も美しい姿を残している。
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2007/11/15


十楽寺 Juuraku-ji 

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 四国霊場第7番札所である十楽寺(じゅうらくじ)は、弘法大師・空海が阿弥陀如来像を彫って本尊とした寺である。
 「八の苦しみを逃れ、十の楽があるように」との意味から光明山十楽寺と称し、境内の治眼疾目救済地蔵尊は眼病に霊験があることで知られている。
 永正年間(1504~1520)、長宗我部元親の兵火の際に堂を焼失し、この時、住職の真然は本尊・脇仏・舎利仏・経本など運び出したが、経本を持たせた小坊が流れ矢に射られ、倒れた小坊はその時経本を土に隠した。その場所は「経塚」として、今も残されている。
 その後、お堂は寛永一二年に再建されたが、現在の本堂は、更にあとの明治の再建とされている。
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2007/9/7


秋保神社 Akiu-jinja Akiu Shrine

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 秋保神社(あきうじんじゃ)は、宮城県仙台市の秋保町に鎮座する古社である。
 もとは坂上田村麻呂が創建した熊野神社が鎮座していたといわれるが、秋保氏十五代の盛房(もりふさ)が、永正一〇(1513)年に名取の長井氏との合戦の戦勝を祈願して、信濃国より諏訪神社を勧請したのが始まりとされる。
 その後は「お諏訪さま」として親しまれ、秋保にある長袋、馬場、境野、湯元、新川の五ヶ村の鎮守として信仰を集めていく。
 そして、明治四二(1909)年に秋保地区の神社等を総括合祀することとなり、秋保神社と改称し、今に至っている。
 秋になると秋保神社大祭が催され、今も地域の人々で大いに賑わいを見せるが、普段は市の保存樹木に指定されている大きなイチョウやシダレザクラの古木に囲まれた、すがすがしい緑と静寂な佇まいを持つ神社である。
 濃い緑に包まれて、静かな境内を散策すれば、神社の持つ長い歴史の一片を感じられるかもしれない。
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2007/8/29


日吉神社 三重塔 Hiyoshi-jinja Sanjuu-no-tou 

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 濃尾平野の北西部、大垣市に隣接する神戸町(ごうどちょう)に日吉神社がある。弘仁八(817)年、最澄が東国に天台宗を広めるためこの地に立ち寄った際に創建したといわれ、近江坂本の日吉大権現を主神として七柱の神を祀り、往時は八人の社僧を抱え、比叡山と共に栄えてきた。
 この神社には、室町時代の建築様式を申し分なく発揮した貴重な三重塔が現存する。永正年間(1504~1520年)に斉藤利綱が建立し、天正十三(1585)年に稲葉一鉄が修造した。
 三重塔は各層の平面がやや小さく、その分、軒が深く感じられる。全体のバランスは良いものの、二層には設けられている高欄を付した縁が三層にはなく、その理由は不明。檜皮葺屋根や、すらりと伸びた型通りの鉄製の相輪が美しい。
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二上神社 Futagami-jinja 

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 二上山(ふたがみやま)は標高1082メートルある天孫降臨(てんそうこうりん)ゆかりの山として知られ、つつじの名所でもある。この山の高千穂町と五ヶ瀬町の境界付近にあるのが二上神社(ふたがみじんじゃ)である。
 天孫降臨とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令により、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、「葦原の中つ国(天の高天原(たかまがはら)と、地の黄泉の国(よみのくに)の中間にある地上の世界)」を治めるために高天原から地上に降り立ったことをいう。
 昌泰元(898)年に現在地に社殿が建立され、永正八(1511)年に三田井右京大夫右武が再建、文化一一(1814)年炎上したためまた再建された。
 伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)を祀る。上代では山頂に祀られていたのが、昌泰年間(898~900年)に高千穂町押方に東宮、五ヶ瀬町三ケ所に西宮が建立され、それぞれ二上神社、三ヶ所神社(さんがしょじんじゃ)となっている。
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2007/5/25


宗谷厳島神社 Souya-itsukushima-jinja 

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宗谷厳島(そうやいつくしま)神社は、北海道稚内市の宗谷村にある神社。
 創立年代は不明だが、天明二(1782)年に奉納されたと伝えられる奉納物「鰐口」が現存することから、天命元(1781)年に建立されたと考えられている。祭神は市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)という女神である。
 神社の謂れはさらに室町時代まで遡る。永正十二(1515)年、松前藩の祖先である武田光広が、夢のお告げから、蝦夷地海浜の要衝に弁財天を祭るように命じた。その子孫である蛎崎慶広が、永禄四(1561)年に姓を「松前」に改めた祭、宗谷の地にも「弁財天堂」を寄進したのがそもそもの始まりだとされる。
 宗谷厳島神社には創建以来の貴重な奉納品が多く残されており、昭和四五年に、神社と奉納品の数々が稚内市の有形文化財に指定されている。
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2007/5/7


横山不動尊 Yokoyama-Fudouson 

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 横山不動尊は、宮城県登米市津山町にある曹洞宗大徳寺の通称である。本尊は不動明王。
 保元元(1156)年、百済から渡来した不動明王像を横山の森山中央に祀ったのが、横山不動尊の始まりと伝えられている。
 以来、明王山金剛寺として続いたが、永正元(1504)年、真言宗から曹洞宗に改宗の際に大徳寺と改称され、横山不動尊として親しまれてきた。
 不動堂は、津山杉が立ち並ぶ山麓に堂々たる構えを見せている。
 堂内には、弘法大師作と伝えられる高さ5mの木造座像が安置され、その胎内には、渡来した黄金の不動明王像が収められている。
 境内には青銅五重塔が建ち、池には昔から不動尊の御使姫(おつかいひめ)として大切にされてきた天然記念物の淡水魚「ウグイ」が生息している。
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2007/3/19


大田原城跡 Ootawara-jyou-ato Ohtawara Castle Ruins

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 大田原(おおたわら)城は、戦国時代に那須七騎のひとりとして活躍した大田原貴清(すけきよ)が天文十四(1545)年に築城。明治四(1871)年の廃藩置県に至るまでの326年もの間、大田原氏の居城となった。
 大田原氏は、永正十五(1518)
 年に大関氏に大田原から追放されるも、天文十一(1541)年には大関氏を討ち、大田原を奪還。その後豊臣秀吉にも重用され、関が原の戦いでは徳川家に組し、戦後14400石を与えられるなど、一大大名として名を馳せたという。大田原氏は、戦国時代を生き残り、明治維新まで力が衰えることのなかった大名として、非常に稀な例である。
 往時は本丸、二の丸、三の丸、北曲輪、西曲輪、馬場などがあり、大名城としては規模の大きいものだったが、現在完存しているのは本丸、二の丸、北曲輪のみ。
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