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2008/10/21


岸和田だんじり祭 kishiwada-danziri-matsuri 

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 大阪府岸和田市(きしわだし)の岸和田だんじり祭は、「だんじり」と呼ばれる欅(けやき)の山車を綱で曳き、疾走する全国的にも有名な祭りである。
 元禄一六(1703)年、岸和田藩主の岡部長泰(おかべながやす)が、五穀豊穣を祈願して稲荷祭をおこなったのが始まりである。
 毎年九月と一〇月に行われ、各町ごとのだんじりを総勢500人の若者が曳き回す。この祭りの見せ場は、だんじりが曲がり角で方向転換する時の豪快な「やりまわし」である。祭りの二日間、定められら曳行路を何度も駆け巡り、重さ四トンもあるだんじりを、疾走しながら直角に向きを変えるのである。
 だんじりには屋根が二つあり、前方の大屋根の下では、大太鼓、小太鼓、笛、鉦の鳴り物が演奏される。最初は緩やかに、そして徐々に囃子が早くなり、曳き手も駆け足になる。そして曲がり角が近づくと両方の屋根に乗った大工方の指示で一気に曲がる。
 日没後は、だんじりに約二百個の提灯が灯り、子ども達が乗り込んで、灯入れ曳行きが行われる。
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2008/10/15


野田 ばっぱか獅子舞 Noda Bappaka-shishimai 

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 ばっぱか獅子舞(ばっぱかししまい)は、千葉県野田市清水にある八幡神社で、毎年の七月二四日に奉納されている古式ゆかしい獅子舞である。
 元禄六(1693)年に、現在の埼玉県にあたる武蔵野国下間久里村から伝えられ、同年に大流行した疫病の厄除けとして村の氏神である清水村八幡神社に奉納されたことにより始まったとされる。
 古くは『子ササラ舞』と呼ばれていたが、舞手の腹につけた太鼓の音が「ばっぱかばっぱか」と聞こえるところから、現在の呼び名になったといわれている。
 昭和十(1935)年に一度途絶えるも、清水地方に伝わる五穀豊穣、厄除けの伝統的な儀式であるとして戦後に復活した。
 獅子舞と棒術、居合術の三つから成り立っており、昔からの形式を残す数少ない、貴重な獅子舞として千葉県の無形民俗文化財に指定され、今もその伝承を精力的に伝え続けている。
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2008/10/1


さつま焼 Satsuma-yaki 

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 さつま焼は、鹿児島県に古くから伝わり、四百年の歴史を持つ伝統工芸品である。
 起こりは江戸時代に遡る。元禄・慶長の役の頃、当時の薩摩藩主・島津義弘が朝鮮から陶工を薩摩に連れ帰ったのが始まりだ。その陶工たちが研究を重ねて薩摩の土と向き合い生まれたのがさつま焼である。
 最大の特徴は、白土を使ったその白い焼き色。その高貴な風合いは白もんと呼ばれ、藩主のみに使用が許されたという。また、赤、青、緑、金彩で彩色する豪華で繊細な金襴手という高度な手法や、小刀で緻密な透かし彫りを行うのも特徴のひとつ。さつま焼には陶工たちのたゆまぬ努力の証、繊細で優雅な技が尽くされているのだ。
 慶応三(1867)年にはパリ万博に出展、大絶賛される「SATSUMA」の名を世界に轟かせた。平成十四年には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている。
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2008/9/22


古伊万里 Koimari 

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 古伊万里(こいまり)は、江戸時代に、現在の佐賀県西松浦郡有田町とその周辺地域で焼かれた磁器の総称である。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた李朝の陶工によって、17世紀初頭、中国明朝末の景徳鎮を模倣しながら有田で始まった磁器が初期伊万里で、有田焼とも言われる。以後、古陶磁の中でも文様が美しく、魅力的な焼き物として発展した。
 伊万里の港から全国各地、或いは遠くアジアを経てヨーロッパへ渡って行き、中でも絢爛豪華な金彩等をほどこした品は、ヨーロッパの王侯貴族に愛用された。
 後期の染付の色は濃く、さらに赤や金の絵の具を贅沢につかい、花文様などを器面いっぱいに描きこんだこの様式は、経済的に豊かであった元禄時代の気風を反映したものと考えられている。
 古伊万里は、マイセン窯等にも多大な影響を与えた、日本を代表する伝統の古陶磁器である。
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2008/9/1


岩滑新田 神明社の祭礼 Yanabe-shinden Shinmei-sha-no-sairei 

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 岩滑新田(やなべしんでん)神明社の祭礼は、愛知県半田市岩滑の神明社にて毎年4月中旬の土日に行われている神事である。
 神明社は、元禄四(1691)年、天照大神を祭祀としたのが始まりとされる。
 山車祭りは大正初期に始まったが、祭りの担い手である青年会の解散により昭和二九(1954)年、一時は途絶えた。しかし昭和五二(1977)年、再び復活した。
 祭礼では、前日の夕方から提灯で飾った岩滑新田の山車、平井組神明車と奥組旭車が引き出される。山車の彫刻は新美常次郎の手によるものであり、丁寧で美しい。本祭りの日は神明社から秋葉社、津島社を経て、神子、三番叟、神楽が奉納される。
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2008/8/22


池上本門寺 五重塔 Ikegami-honmon-ji Gojuu-no-tou 

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 池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗大本山の寺院である。本尊は、日蓮像。日蓮聖人霊跡とされている。弘安五(1282)年、ここで日蓮が最後の日々を過ごして死去し、日朗によって開基された。
 五重塔(ごじゅうのとう)は、慶長一二(1607)年、将軍・徳川秀忠の乳母である正心院日幸尼の発願で祖師堂前に建立され、関東では最古の塔とされる。元禄一六(1703)年、現在地に移築される。
 高さ29m、全面赤色塗料のベンガラ塗り、建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。塔は基壇上に建ち、高欄のない縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間雲板様盲連子窓、中備えは三間とも十二支の彫刻のある蟇股となっている。
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2008/8/13


くしふる神社 Kushifuru-Jinja Kurufushi Shrine

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 くしふる神社は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。祭神は、天津日子彦番火邇々杵命。
 神社創建は不詳で、はじめは社殿もなく、山そのものを神体として祀り、高千穂八十八社のひとつに数えられていた。元禄七(1694)年、当時の延岡藩主や村人たちの厚い信仰により、社殿が建てられた。
 古事記にはニニギノミコトが降り立った所は、高千穂の「くじふる峰」と記されているが、その場所と考えられている「くしふる峰」の中腹にある神社である。周辺には神武天皇の兄弟神の生誕地である四皇子峰や高天原遥拝所、高千穂碑等の神話史跡がある。
 森に囲まれ静かな佇いの社で、高千穂神社、天岩戸神社、くしふる神社の三カ所を詣でる三社参りが古くから人気となっている。
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2008/7/30


精好仙台平 Seigou-sendai-hira 

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 精好仙台平(せいごうせんだいひら)は、生糸の性質をそのまま引き出す独自の技法によって独特の光沢を放つ、藩政時代から続く伝統的な織物である。
 元禄の頃、仙台伊達藩の四代目藩主である伊達綱村が、郷土産業振興のために京都の西陣より織物師を召抱え、法被や袴、能装束、兵具などを織り出させた。その後も代々藩主の手厚い庇護を受け、織物業が発達していく過程で考案されたものとされる。昭和三十一年には、手動織機による精好仙台平が重要無形文化財に指定された。
 その織り上げは精巧を極め、一般的な絹織物よりも多いおよそ三十もの工程を経て生み出される。また、製作における過程のいくつかは一子相伝、門外不出の秘伝とされている。
 そうして織られた仙台平は、座れば優雅なふくらみを保ち、立てばさらりと折り目が立ち、激しい舞の動きなどでも、さわやかですらある衣擦れの音と共に軽々と足裁きに従う。そうした質の高さから、格式高い武士の間で「日本一の袴、仙台平なり」と賞賛されたという。
 
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