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2008/7/11


山水屏風 Senzui-byoubu 

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京都国立博物館に収蔵される山水屏風(さんずいびょうぶ)は、現存する平安時代の屏風絵としては、唯一の品であり、国宝として指定されている。
 平安時代、中国的風俗が描かれた唐絵屏風は、東寺や、醍醐寺などの真言寺院で、頭頂に水を灌ぎ、正統な継承者とする為の灌頂(かんじょう)儀式を受ける際に、調度品として高位の人物の座所に立てられていた。山水屏風の名称は、そうして水を用いる灌頂儀式を行うときに用いる屏風であることからつけられた。
「山水屏風」は、縁取りのある6面の扇から構成され、山、花、木などの春の風景、人物、小鳥、馬などが、生き生きと描かれている。
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2008/5/2


寝殿造 Shinden-zukuri 

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 寝殿造(しんでんづくり)は、平安時代における代表的な貴族の住宅建築様式である。
 南向きに建てられた高床式の寝殿を中心として南には庭を敷き、寝殿の左右背後に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物が、渡殿(わたりどの)でつながれ、上空から見ると「コ」の字型の建物群が形成されているのが特徴である。
 また、庭には池や築山などが造園され、対屋から更に南に張り出した泉殿(いずみどの)や釣殿(つりどの)が池にかかるように造られた。
 建物内部はあまり仕切られておらず、屏風や簾などで用途に応じて間仕切りしていたとされる。
 万事に広く造られていて、大きな敷地を要するのもこの造りの特徴である。あまり位の高くない貴族であっても一町(120m)四方を標準として、一千坪以上の敷地に建てられていた。
 鎌倉時代に入ってから寝殿造を簡略化した「武家造」や、それを経て造られるようになった「書院造」に至るまで、日本における家屋の代表的な建築様式として今に伝えられている。
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2008/3/18


松前屏風 Matsumae-byoubu 

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 北海道松前町は、道内で唯一の城である松前城がある。安政元(1854)年に完成した、我が国最後となった日本式城郭である松前城は、復元された天守閣の内部が資料館となっている。そこに展示されているのが、往時の様子を描いた「松前屏風(まつまえびょうぶ)」で、北海道有形文化財に指定されている。
 江戸時代中期に活躍した松前の画家・小玉貞良(こだまていりょう)が、宝暦年間の松前城下を描いたものである。
 この屏風は、蝦夷地の交易に活躍した近江八幡の商人で、小樽の場所請負人でもあった恵比須屋岡田弥三右衛門が描かせたものである。松前での繁盛ぶりを伝えるために屏風をつくったといわれ、高さ約一、六メートル、横約三、七メートルの大きさに、当時の風俗、交易の様子などが描写されている。
 近江八幡の商人は、北前船で蝦夷地のニシン・コンブ・干しアワビをを京都や大阪に持ち帰り、呉服・米・みそ・しょうゆなどを松前に運んで商いをしていた。
 現物は非公開で、現在資料館にて原寸大の複製が展示されている。
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2008/2/8


壬生寺 Mibu-dera 

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 京都府京都市中京区にある寺。
 奈良時代の創建と伝えられ、正暦二(991)年、大津にある三井寺(園城寺)の僧・快賢が再興して「小三井寺」と呼ばれた古刹である。中世には円覚上人が寺を再興し壬生狂言(壬生大念仏狂言)を興した。壬生寺は京都三大狂言の一つである壬生狂言を伝える寺として、今も京の庶民に親しまれている。また幕末には、新撰組がこの寺を「兵法鍛錬場」として使用したことから、新撰組のゆかりの寺としても有名である。境内の壬生塚には、近藤勇の銅像や隊士の供養搭などが残っている。
 壬生狂言が演じられる「大念佛堂」、秘仏である辧財天が祀られている「弁天堂」をはじめ、五仏錫杖頭(ごぶつしゃくじょうとう)(重要文化財)や列仙図屏風(れっせんずびょうぶ)(長谷川等伯筆・重要文化財)などや、室町時代の作を含む190点もの狂言の面を今に伝えている。
 今も、壬生の地の人々の中にある寺である。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2008/1/22


群青色(グンジョウイロ) Gunjou-iro Gunjyou Color

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 青の集まりという意味を持つ群青色(ぐんじょういろ)は、中国から入った顔料の名に由来しており、青色や紺色とは違ってやや紫味を含んでいる。紺青(こんじょう)とも呼ばれる深く濃い青色のことである。
 天然の群青で最上のものは「瑠璃(るり)」から作られたと言われる。瑠璃は英名をラピス・ラズリといい、当時はとても稀少な鉱石であったという。瑠璃以外では藍銅鉱のアズライト粉末が原料に使われている。
 群青色は日本画の鮮やかな青色を表すためには欠かせない色とされており、桃山時代の豪華な障壁画などにも多く見られる。また、江戸時代の屏風絵や反物などにもその濃厚な青色が惜しみなく使われている。
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2007/11/22


文様 雪輪(ユキワ) Monyou Yuki-wa 

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 雪輪(ゆきわ)とは、雪の文様の1つで、雪の結晶に見られる美しい六角形の輪郭を円形に描いた和文様である。
 和文様とは、平安時代以来、公家の服装・調度品や装飾に用いられた形、色、構成などに独自の優美な様式を持つ図柄の総称である。
 雪輪は、安土・桃山時代の小袖に既に見られ、寛永年間(1624~1643)頃には、彦根屏風における犬を連れた夫人、松浦屏風における髪をくしけずらせる婦人の衣装に雪輪が描かれている。
 また、天保三(1833)年、下総国古河藩主・土井利位(どいとしつら)は、雪の結晶の観察を続けて「雪華図譜」をあらわし、86個の結晶図を紹介している。
 文様・雪輪は、吉祥文様として振袖・留袖・小紋・帯などに幅広く用いられている、伝統的な和文様である。
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2007/10/12


八王子 金剛院 Hachiouji Kongou-in Kongoin Temple in Hachioji

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 八王子の金剛院(こんごういん)は、東京都八王子市上野町にある高野山真言宗別格本山の寺院である。本尊は不動明王。八王子七福神のひとつで、関東八十八ヶ所六三番、武相観音四十八ヶ所一六番、多摩新四国八十八ヶ所七三番札所とされる。
 天正四(1576)年、僧・真清が不動堂を建立して開創し、寛永八(1631)年に高野山慈眼院・金剛峰寺の末寺として現在地に再興された。
 昭和二〇(1945)年の戦火で焼失したが、戦後再建した。
 七福神の寿老尊・福禄寿の二尊が奉安されており、寺宝として、都有形文化財に指定されている江戸時代初期作「紙本着色高野山図会」や「紙本着色西王母図」という六曲屏風を収蔵している。
 八王子の金剛院は、数多くの寺宝を所有する古刹である。
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