NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/22


室町彫刻 muromachi-choukoku 

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 室町彫刻とは、室町時代(1392~1573)に彫られた、主に仏像・肖像彫刻のことである。
 南北朝・室町を通じて木彫が主流で、偶像を必要としない禅宗が盛んになった事もあり、仏像製作において著しい発達を見た鎌倉時代に比べ、多くの仏師たちは職業仏師に徹し、従来の形式を追うのみで新しい様式を生み出すことがなかったとされる。
 しかし禅宗寺院では仏像はなくとも祖師や開山の像がまつられており、これら肖像彫刻は、個性的な写実表現と禅宗的人格表現を基調とした新しい感覚のものであった。
 また実際には、戦火に見舞われながら仏像が造られ続ける中で、合理性が追求された箱型寄木造りが採用されたり、接着用の膠(にかわ)が多用されたりするなど技法上の改革もあった。
 一方、観阿弥、世阿弥によって大成された能から、仮面彫刻としての能面が生まれている。
 室町彫刻は、仏像彫刻に代わり肖像彫刻が主流となっていった時代の彫刻である。
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2008/7/28


湛慶 Tankei 

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 湛慶(たんけい)は、鎌倉時代の仏師で、東大寺金剛力士像造仏で著名な仏師、運慶の嫡男である。
 承安三(1173)年~建長八(1256)年とされるが、没年には諸説ある。
 祖父の康慶が興した平安末期にはじまる仏師の一派「慶派」に属し、父である運慶や同じく仏師として知られる快慶と並ぶ大家として知られている。
 運慶工房の一員として、東大寺や興福寺の復興造像に携わり、運慶が没するまで、さながら父子二人三脚で隆盛を極めていくこととなる。
 父の没後は工房の後継者として活動し、生命感あふれるたくましい表現の「運慶様式」を引き継ぎつつ、さらに洗練された温和な作風の作品を生み出してその独自性を高めていくが、建長八(1256)年、東大寺講堂の復興造像における中尊千手観音像の造像半ばで没する。
 代表作としては、京都の妙法院・三十三間堂本尊の木造千手観音坐像や高知県の雪蹊寺にある木造毘沙門天及び両脇侍立像がある。
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2008/7/25


運慶 Unkei 

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 運慶(うんけい)は、平安時代末期~鎌倉時代初期に活動した仏師である。
 一二世紀半ば頃、奈良の名仏師・康慶(こうけい)の子として生まれた。
 平安中期以来造像の基準であった定朝様式の作風が固定したことに対し、鎌倉時代にその反省がおこり、運慶は父・康慶とともに定朝様式を受け継ぎながらそれを脱却、強く鋭い作風を築きあげていった。
 天才的な腕前を誇り、1180年代後半の一時期、鎌倉武士のために仏像を手がけ、貴族中心の平安の世から武士社会である鎌倉時代への変遷の中で、仏像も優雅端整なものから質実剛健なものが好まれる様になり、その流れに合って運慶派はもてはやされるようになったという。
 代表作として、東大寺南大門の金剛力士像、興福寺の諸像などが知られている。
 運慶は、慶派の中心的仏師として活躍した名仏師である。
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2008/7/24


快慶 Kaikei 

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 快慶(かいけい)は、鎌倉時代に活動した仏師である。
 生没年は未詳で、寿永二(1183)年に運慶(うんけい)が自ら発願し写経をした法華経の結縁者の一人として快慶の名が見える。
 運慶が没した貞応二(1223)年に、醍醐寺閻魔堂(だいごじえんまどう)の諸像の制作に従事している事から、ほぼ運慶と同年代に活躍した仏師で、運慶の父・康慶(こうけい)の弟子と考えられている。
 快慶は、熱心な浄土信仰の持ち主で、南無阿弥陀仏・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に帰依し、安阿弥陀仏(あんなみだぶつ)と名のった。
 快慶は慶派の様式を基礎としながらも、平安後期の様式や宋風を取り入れた新様式を生みだした。衣文線をきれいに整え、美しさを強調した来迎印の阿弥陀如来像を数多く作り、その作風は「安阿弥様」とよばれている。
 快慶は、運慶とともに鎌倉時代を代表する名仏師である。
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2008/7/16


終い弘法 Shimai-koubou 

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 終い弘法(しまいこうぼう)は、十ニ月二一日に開催される年内最後の弘法市である。弘法市とは、毎月ニ一日に京都府京都市南区九条町、東寺の境内で開催される市のことをいう。
 天福元 (1233)年に仏師康勝により東寺に弘法大師像が造像されたのをきっかけに、延応二(1240)年から大師のご住房であった御影堂においても御影供法要が執り行われるようになった。これが現在の弘法市のルーツにあたるといわれている。
 歴史の長い市だけに、毎月の市にも古着や骨董品などを中心に多数の露天が開かれ賑わいをみせているが、終い弘法となると、その盛り上がり具合は輪をかけて大きい。終い弘法は、年末に催されるということもあり、年越しに欠かせない品や正月用品などを取り扱うお店も出店し、1000軒以上の露天が立ち並ぶ。東寺への参拝客や市への買い物客が数十万人訪れ、その賑わいは一年の締めにふさわしい活況を呈している。
 京都ならではの色褪せない歴史の匂いを感じながら、年越しの風情を楽しめる催事の一つである。
 
 
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2008/7/1


海岸寺 Kaiganji 

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 海岸寺(かいがんじ)は、長野県との県境に位置する山梨県北杜市にある臨済宗の名刹である。
 養老元(717)年、行基が現在の地である津金山の南斜面に庵を構えたのが始まりとされる。
 海抜約1000mに位置し、天候によっては眼下に雲海を見ることができることから海岸寺という名が付いたといわれている。
 寛治年間(1087~1094)には新羅三郎義光が、京より玄観律師を同寺に迎え、国家鎮護の大道場として隆盛するも、天正一〇(1582)年の織田信長による甲斐侵攻の際、兵火によって堂宇の多くを焼失した。
 現在の堂宇の多くは中興の祖である即應宗智和尚により、寛文六(1666)年に再建されたものである。
 境内には江戸時代の石仏師が一〇年以上の歳月をかけて彫り上げた百体あまりの石仏があり、これを目当てに訪れる人も多い。
 四季折々の風景と共に、様々な表情を見せる石仏をゆっくりと巡ってみるのも良いかもしれない。
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2008/6/18


法金剛院 Houkongouin 

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 京都府右京区にある「法金剛院(ほうこんごういん)」は、通称「蓮の寺」と言われており、関西花の寺第一三番霊場として知られている。七月から八月に咲く蓮の花は、極楽に咲く花といわれ、世界から集められた約八〇品種の清楚で華麗な蓮が咲きそろう。
 平安時代初期、この地は右大臣・清原夏野(きよはらのなつの)の別荘だったが、没後、寺とした。その後平安時代後期の大治五(1130)年、鳥羽天皇の中宮である待賢門院の御願により復興し、法金剛院を建立した。
 丈六の本尊「阿弥陀如来坐像」は、像高が二メートル以上もある大作で、仏師・院覚(いんかく)の作と伝えられる。平安時代後期の代表的な仏像として、重要文化財に指定されている。その他、金属工芸を施した「十一面観世音菩薩像」、一木彫の「地蔵菩薩像」など、多数の重要文化財の仏像が保存され、それらは拝観することもできる。
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2007/12/6


東福寺 五百羅漢 Toufuku-ji Gohyaku-rakan The Frescos of Five Hundred Rakan at Tofukuji Temple

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 東福寺(とうふくじ)は、静岡県賀茂郡西伊豆町中にある臨済宗の寺である。本尊は、阿弥陀如来。
 天福年間(1233~1234)に建立され、天福寺と称されていたが、嘉元年間(1303~1305)に、現在地に再建され、東福寺となったと伝えられている。
 五百羅漢は、東福寺本堂の天井に描かれている漆喰画で、仏師・田村利光により四年八ヶ月の歳月をかけて作製された。
 羅漢とは、仏道の修業者又は悟りを開くために修業中の修業僧の意で、中央に描かれた龍とそれを取り巻く五百羅漢、四方に配した天女からなる天上界の図は迫力満点である。
 田村利光は通称・のんべえやす、とも言われた酒飲みで、五百羅漢は大正末期に完成させている。
 東福寺の五百羅漢は、現代でも立体的で綺麗な色彩に驚嘆する、漆喰の天井絵である。
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