藤原啓(人間国宝) Fujiwara Kei(Ningen-kokuhou) Kei Fujiwara, a Living National Treasure
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明治三十二年、現在の備前市穂浪生まれ。備前焼、藤原備前の祖である。
藤原啓はもともと作家志望であり、備前焼を手掛けたのは昭和十四年の春、つまり氏が四十歳の時である。
二十歳の時に代用教員の職を投げうって上京し、文学だけに留まらず絵や音楽を学び、さらには映画の脚本・制作まで手がけていたが、文学への道は開けぬまま、ついに昭和十二年、十八年の東京の生活を捨てて郷里へ戻った。三十八歳の時の事である。
その後、正宗白鳥の弟、正宗敦夫より備前焼きを薦められるが、中年で素人の藤原に売れる作品などが簡単に作れる筈もなく、陶芸家として立脚するには長い歳月を要した。
備前焼作家として評価のあった全重陶陽との親交が氏の技術を進展させ、後に全重・藤原の両氏は共に人間国宝として認められるほどに円熟したものになる。その素朴で実直な作風で多くの人々から親しまれ愛されている。
藤原啓はもともと作家志望であり、備前焼を手掛けたのは昭和十四年の春、つまり氏が四十歳の時である。
二十歳の時に代用教員の職を投げうって上京し、文学だけに留まらず絵や音楽を学び、さらには映画の脚本・制作まで手がけていたが、文学への道は開けぬまま、ついに昭和十二年、十八年の東京の生活を捨てて郷里へ戻った。三十八歳の時の事である。
その後、正宗白鳥の弟、正宗敦夫より備前焼きを薦められるが、中年で素人の藤原に売れる作品などが簡単に作れる筈もなく、陶芸家として立脚するには長い歳月を要した。
備前焼作家として評価のあった全重陶陽との親交が氏の技術を進展させ、後に全重・藤原の両氏は共に人間国宝として認められるほどに円熟したものになる。その素朴で実直な作風で多くの人々から親しまれ愛されている。
- 住所
- 岡山県備前市
- HP
- http://www.fujiwarabizen.com/index.html