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2008/5/20


砺波夜高祭 Tonami-yotakamatsuri 

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 砺波夜高祭(となみよたかまつり)は、富山県砺波市本町にて毎年六月の第2金曜、土曜の2日間に渡って行われる田祭りである。
 砺波地方各地では古くから夜高祭りが開催されており、一番古いものでは、慶安年間(1648~1651)、神明社の創設にあたって、人々が手に手に行燈を持って伊勢神宮の分霊を出迎えたと伝わっている。
 砺波夜高祭は五穀豊穣・豊年満作を祈る田祭りで、田楽や夜高と称する大小の行燈が町内を練り歩き、拍子木、唄、太鼓に包まれて続く。出町の夜高が町内に集い、祭りが始まったとされるのは大正年代の事とされている。
 戦中、戦後は資材や労力不足から中断した事もあったが、現在では絢爛豪華に開催されている。
 砺波夜高祭は、初夏の風物詩ともいえる農民の祭りである。
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2008/4/16


旧観坊 Kyuukanbou 

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 旧観坊(きゅうかんぼう)は、石動山(せきどうざん)旧観坊とも称し、その名のとおり、能登と越中の国境にある信仰の山、石動山中にある坊だ。
 坊とは僧侶の宿舎や参拝者達の宿泊施設を表し、石動山信仰が最盛期を迎えたころには山全体に約三百六十の坊が建ち、三千人の衆徒を擁していたという。
 明治初年の廃仏毀釈により、神仏習合の地であった同山は衰退することになるが、旧観坊はその悲運の山に残された唯一の坊である。
 建造年代は不明だが、慶安二(1649)年の書上帳にはすでに記されていることから、それ以前の建造と見られる。
 苔むした入母屋造りの厚い茅葺や時代感のある灰色の壁板など、農家風の構えをもっているが、化粧垂木(けしょうだるき)などの構造様式にはかつての寺坊としての格式を残している。
 周辺は紅葉のスポットとしても知られており、旧観坊を覆うように色付く紅葉や、廃れて森へと還りつつある坊の遺構などが、よりいっそうの趣を訪れるものに与えてくれる。
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2007/12/11


即清寺 Sokusei-ji 

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 青梅市にある即清寺(そくせいじ)は真言宗の古刹で、本尊は不空羂索大忿怒明王(ふくうけんさくだいふんぬみょうおう)である。
 創設は元慶八(884)年で、僧・元喩(げんゆ)が開創したと言われ、建久年間(1190~1199)源頼朝の命により畠山重忠が伽藍を造営した。即清寺の名は、重忠の戒名「勇賛即清居士(ゆうさんそくせいこじ)」から名づけられている。
 その後は北条氏照に信仰され、慶安元(1648)年には徳川氏から明王堂領三石の朱印状が寄せられた。
 寛永七(1630)年に鋳造された銅鐘は、太平洋戦争中に供出され、現在のものは戦後造られた。また本堂の前には、文明五(1473)年に造立された十三仏結衆板碑がある。
 即清寺は吉野街道の山裾にあり、この寺を含め周辺一帯は東西四キロメートルにわたり吉野梅郷と呼ばれる梅の名所として知られ、境内には招春梅と呼ばれる梅の銘木がある。その他、庭にはモクレンの大木があり、四月初めに多くの花を咲かせる。
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2007/11/28


東照宮 五重塔 Toushou-guu Gojuu-no-tou 

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 世界遺産に登録され、観光地としてもあまりに有名な日光東照宮。本殿や陽明門をはじめ、境内のほとんどの建造物と美術工芸品が文化財に指定され、その規模とともに訪れる者を圧倒する。
 元和三(1617)年、江戸幕府初代将軍徳川家康を奉祀するため、二代将軍秀忠により造営された東照宮は、寛永一三(1636)年には三代将軍家光により建て替えられ、今日の絢爛豪華な社殿群となった。
 境内の外れに建つ五重塔は、国の重要文化財に指定されている。慶安三(1650)年に若狭国小浜藩主の酒井忠勝(さかいただかつ)により献納されたが火災に遭い、文化一四(1817)年に子孫の酒井忠進(さかいただゆき)によって再建された。初層から四層までが和様、五層が唐様で、垂木(たるき)の形が異なる。初層の蟇股(かえるまた)には、十二支の動物が彫刻されている。内部には四天柱が置かれ、須弥壇に四方仏が安置されている。
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2007/10/31


如意輪寺 Nyoirin-ji Nyoirinji Temple

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 如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある浄土宗の寺である。
 延喜年間(901〜923)、文章博士三善清行の子で、日蔵道賢上人の草創とされる。本尊は如意輪観音。
 1336年、南北朝の戦いに敗れて吉野に行宮を定めた後醍醐天皇の勅願所となった。
 後醍醐天皇の没後、楠木正行が大阪四条畷の戦いに出陣する前に、やじりで堂の扉に辞世の歌を刻んだことでも知られている。
 慶安3(1650)年、文誉鉄牛上人が来て、本堂を再興し、真言宗を改めて浄土宗となった。
 如意輪寺には、南朝時代の寺宝や忿怒の姿を表した蔵王権現像、日本最大の寝拝観音「ねおがみ観音」など、歴史的に貴重な品が数多く展示されている。
 如意輪寺は、そこにいるだけで歴史を体感出来る、伝統の寺院である。
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2007/9/19


成川神舞 Narikawa-kanme 

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 成川神舞(なりかわかんめ)は、鹿児島県指宿市山川成川の成川南方神社にて、三年に一度、一〇月二七日前後に行われる神事である。
 成川南方神社は、創建年は不明ながら古くからこの地に建つ神社で、祭神は建御名方命(たけなかたのみこと)。
 成川神舞はお諏訪さんと呼ばれている南方神社に伝わる神楽で、以前は国家・神社や氏子に事ある時に神事を行い、その最後に神舞を奉納していた。
 成川神舞の起源は不明だが、慶安二(1649)年、藩主・島津家久の前で神舞を舞ったとの記録が残る為、慶安から万治年間(1648~1661)には成立していたと思われる。
 初日と二日目に、グレと呼ばれる神輿が家々を御神幸する神事を行い、二日目の夕刻から二〇番以上ある神舞が奉納される。
 成川神舞は、勇壮な中にも優雅さが感じられる郷土芸能である。
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2007/9/10


五十鈴神社 Isuzu-jinja 

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 宮城県気仙沼市にある、カツオの水揚げで名高い気仙沼港に程近い神明崎の上にあるのが五十鈴神社(いすずじんじゃ)だ。
 その興りは応永年間(1394~1428)にまで遡る。当時、周辺の村毎に一社の皇大神宮を祀ることになり、丸森に建立されたのが始まりとなる。
 その後の慶安年間(1648~1652)に現在の神明崎に遷座され、今に至っている。
 境内には御祭神を祀った産霊(むすび)社と、気仙沼に海苔養殖と製塩技術を導入した、地元産業開発の祖といわれる猪狩新兵衛翁の御霊を祀る猪狩神社があり、どちらも手厚く保護されている。
 また、神社のすぐ下の神明崎先端にあたる場所には浮見堂と呼ばれるお堂があり、お堂の左右に伸びる朱に塗られた欄干がちょうど海の上に浮いているように見えるなど、深い森と青い海が調和し見事な風景を見せてくれる。
 夜になればこの浮見堂もライトアップされ、よりいっそう幻想的な雰囲気をかもし出す。
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2007/9/7


福岡の鹿踊・剣舞 Fukuoka-no-shishi-odori Ken-bai The Deer Dance and the Sword Dance in Fukuoka

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 福岡の鹿踊・剣舞(ふくおかのししおどり・けんばい)は、宮城県仙台市泉区に伝わる民俗芸能。
 剣舞は慶安ニ(1649)年に、鹿踊は寛政四(1792)年に、それぞれこの地の福岡村、現在の白石市に伝えられたといわれている。
 両者は一対の踊りである。当初は両方とも祖先供養のためのものであったが、後に、鹿踊は天災や自然からの難を逃れ五穀豊饒を願うため、剣舞は悪霊を退散させ、天下泰平を祈り演じられるものなった。
 装束、唯子、踊歌、舞振等の様式や慣行は古い修験道の信仰の形を色濃く残している。
 岩手県の南部から宮城県北部にまで広く分布する鹿踊の流祖ともされている。
 元和元(1615)年に伊達秀宗が四国宇和島藩主に任した時に伝えたといわれる鹿踊も、この踊りの特色を強く伝承している。
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