NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/2


常楽寺 三重塔 Jouraku-ji Sanjuu-no-tou 

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 常楽寺(じょうらくじ)は、滋賀県湖南市西寺にある天台宗の寺である。本尊は千手観音。近江西国三十三箇所霊場第1番札所とされる。東方にある長寿寺の「東寺」に対して、「西寺」と呼ばれている。
 和銅年間(708~715)に聖武天皇の勅願により、良弁によって開基されたと伝わる。
 三重塔(さんじゅうのとう)は、室町時代の応永七(1400)年頃に建てられたと言われている。高さ22.8mの三間四方の本瓦葺で、内部には禅宗様須弥壇を置き、釈迦説法図や釈迦涅槃図、地獄絵などの壁画が描かれており、国宝に指定されている。
 和様の三重塔であり、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束となっている。
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2008/8/13


仙遊寺 Senyuu-Ji 

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 仙遊寺(せんゆうじ)は、愛媛県今治市玉川町の作礼山中腹にある真言宗の寺である。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八ヵ所霊場第59番札所とされる。
 天智天皇(362~672年)の勅願により、越智守興が創建したとされる。本尊は、海から上がった竜女が一刀三礼して彫りあげたといわれ、作礼山の由来になっている。
 養老二(718)年までの40年間、阿坊仙人という僧がここで修行諸堂も整えたが、雲と遊ぶかのようにその姿がかき消えたという。寺号はここから付けられた。
 大きな山門からの旧参道には空海ゆかりの井戸があり、霊水として諸病に効き目があったと伝えられている。また、寺内の仙遊寺文庫には、天皇、諸大名の御文、諸状が多数残されている。
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2008/7/28


湛慶 Tankei 

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 湛慶(たんけい)は、鎌倉時代の仏師で、東大寺金剛力士像造仏で著名な仏師、運慶の嫡男である。
 承安三(1173)年~建長八(1256)年とされるが、没年には諸説ある。
 祖父の康慶が興した平安末期にはじまる仏師の一派「慶派」に属し、父である運慶や同じく仏師として知られる快慶と並ぶ大家として知られている。
 運慶工房の一員として、東大寺や興福寺の復興造像に携わり、運慶が没するまで、さながら父子二人三脚で隆盛を極めていくこととなる。
 父の没後は工房の後継者として活動し、生命感あふれるたくましい表現の「運慶様式」を引き継ぎつつ、さらに洗練された温和な作風の作品を生み出してその独自性を高めていくが、建長八(1256)年、東大寺講堂の復興造像における中尊千手観音像の造像半ばで没する。
 代表作としては、京都の妙法院・三十三間堂本尊の木造千手観音坐像や高知県の雪蹊寺にある木造毘沙門天及び両脇侍立像がある。
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2008/6/18


愛宕念仏寺 Odagi-nenbutsu-ji 

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 延喜一一(911)年に、醍醐天皇の勅願により比叡山の僧・千観(せんかん)により中興されたと伝えられているのが「愛宕念仏寺(おだぎねんぶつじ)」である。ここでは愛宕を「あたご」ではなく「おたぎ」と読む。
 奈良時代後期、聖武天皇の娘の称徳天皇がここに愛宕寺を建てたが、平安時代初期、鴨川の洪水で流され、廃寺となった。その後復興を命じられたのが千観だった。
 江戸時代中期の建物である朱塗りの仁王門は、鎌倉時代に造られたとされる阿・吽の仁王像が奉られている。また、重要文化財である本堂は、鎌倉中期の再建で、大正一一(1922)年に堂宇の保存のため、嵯峨の地へ移築された。本尊は「厄除千手観音」で、平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきた。
 また、境内には石造り千二百羅漢といわれる凄まじい数の地蔵様がある。昭和五六(1981)年、寺の復興を祈願し、賛同した一般の参拝者が作り上げたもので、子供を抱いた地蔵様、酒を持った地蔵様、楽器を吹く地蔵様など、表情豊かに並んでいる。
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2008/1/22


塩船観音 柴燈護摩 火渡り Shiofune-kannon Saitou-goma Hi-watari Saito Goma Fire Festival at Shiofune Kannon

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 塩船観音(しおふねかんのん)は、東京都青梅市塩船にある真言宗醍醐派の別格本山の寺院である。本尊は十一面千手千眼観自在菩薩像。関東八十八ヶ所霊場第72番札所とされる。
 大化年間(645~650)に、17歳の時に人魚の肉を食べ不老長寿の身となり、後に尼僧になったという八百比丘尼(やおびくに)が、この地に立ち寄った際に千手観音を安置したのが始まりと言われている。
 毎年五月三日の大祭には、お堂の中で火を焚き、炎の中に御本尊を勧請し、その中に様々な供物を投じて秘密の真言を唱え、諸願の成就を祈る真言宗修験道の柴燈護摩(さいとうごま)が焚かれる。
 その後に山伏の行列を行い、真っ赤になった火の中を刀を持った山伏たちが真言を唱えながら次々と歩いて渡るという、火渡り(ひわたり)の荒行が行われる。
 塩船観音の柴燈護摩と火渡りは、勇壮で荘厳な神事である。
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2007/12/6


石堂寺 多宝塔 Ishidou-ji Tahou-tou The Tahoto Pagoda at Ishidoji Temple

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 安房最古の名刹と呼ばれる、行基菩薩により開創された天台宗・石堂寺(いしどうじ)には、今も多くの貴重な文化財が残されている。
 天文一四(1545)年、戦国大名・里見義堯(さとみよしたか)によって創建されたと伝えられる、高さ一三mの多宝塔もそのひとつである。
 石堂寺の多宝塔は県指定の有形文化財になっており、桧皮葺の屋根や精巧な彫刻がとても美しい塔である。
 多宝塔は二重の塔と呼ばれ、一階が方形、二階部分が円形となっているものをいう。一階内部には四本柱が立てられており、須弥壇上には木造の千手観音像が安置されているといる。
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2007/11/15


熊谷寺 Kumatani-ji 

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 四国霊場第八番である熊谷寺(くまたにじ)。
 弘法大師が弘仁年間(816~823)にこの地を訪れ、閼伽が谷(あかがたに)で修行されていると、紀州の熊野権現が現われ、1寸8分(約5cm)の金の観世音菩薩像を大師に授けた。
 大師は自から霊木に等身大の千手観音像を刻み、その胸の中に仏舎利120粒とともに、金像の本尊を納めて堂宇を建立、安置したのが起こりとされる。
 昭和二(1927)年火災に遭い、本堂・本尊とも焼失。その後昭和一五(1940)年に本尊を安置する奥殿と拝殿が、昭和四五(1970)年に供養殿と本尊が再建された。
 本堂から更に階段を上った所にある大師堂は、宝永四(1707)年に建立され、安置されている大師像も永享三(1430)年の作とかなり古く、寺宝とされ伝わっている。
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2007/11/1


智満寺 Chimanji Chimanji Temple

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 智満寺は、静岡県榛原郡川根本町にある曹洞宗の寺である。本尊は、八相釈迦牟尼如来、宝冠釈迦牟尼如来、千手観世音菩薩、厄除延命地蔵菩薩とされる。
 寺伝によると、創建は奈良時代で、鑑真の法孫にあたる広智という高僧が草庵を結んだのが始まりとされている。
 一説には、島田市の智満寺の末寺として奥大井に天台教学の拠点として開かれたとの口伝がある。
 延徳3(1491)年、駿河国・洞慶院より回夫慶文禅師を迎え、曹洞宗に改宗開山された。
 平安時代中期以降は、修験道の霊場である山岳寺院として栄え、戦国以後は今川・徳川氏に厚く信仰された。
 智満寺境内の十本杉は樹齢800〜1200年の古樹であり、国指定天然記念物となっている。
 智満寺は、澄んだ空気と絶景の地に建つ古刹である。
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