NIPPON Kichi - 日本吉

記事数60件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/8/26


法起寺 三重塔 Hokki-ji Sanjuu-no-tou 

Jp

 飛鳥時代の慶雲三(706)年に建立されており、日本最古の三重塔である。建立後は再三にわたり大修理が行われたが、調査研究が重ねられ、飛鳥時代の様相をとどめている。
 本瓦葺であり、屋根の勾配がゆるく軒が深い。初層から上層にいくにつれ細くなる、安定したシルエットである。高さは約24メートル。特異な形式である薬師寺東塔を除けば日本最大の三重塔である。
 軒下の雲の形の雲肘木(くもひじき)という組み物、卍(まんじ)を崩した形を繰り返した卍崩しという文様など飛鳥時代の形式である。内部には仏壇に大行天皇(たいこうてんのう)尊儀と書かれた位牌を祀る。
 昭和二六(1951)年に国宝に指定されている。また、法起寺は「法隆寺地域の仏教建造物」として平成五(1993)年に世界遺産に登録されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/7/25


妙喜庵 待庵(国宝) Myoukian Taian(Kokuhou) 

Jp

 妙喜庵・待庵(みょうきあん・たいあん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある臨済宗東福寺派・豊興山妙喜庵境内に静かに佇ずむ茶室である。
 天正九(1582)年の羽柴秀吉と明智光秀による「山崎の合戦」の際、秀吉が山崎の地に陣を張った折、茶人として知られる千利休を招いて陣中に作らせた茶室が、現在地に移築されたと伝えられている。
 愛知県犬山市の如庵(じょあん)と京都府の大徳寺龍光院にある密庵(みったん)にならび、国宝に指定されている三茶室の一つであり、利休作とされる茶室としては国内唯一のものとされる。
 また、茶室建造物としては日本最古であり、数奇屋建築としての原型かつにじり口を設けた茶室の始まりでもある。
 この待庵が最初といわれる茶室に窓を設けたことなど、利休独特の構想が随所にちりばめられており、窓からさしこむ日差しは、黒ずんだ荒壁仕上げの壁に覆われた重厚な室内をよりいっそう趣ある空間に照らし出している。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/6/18


賣太神社 Metajinja 

Jp

 賣太神社(めたじんじゃ)は三社神社とも呼ばれ、ご祭神は稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。
 天武天皇の舎人である稗田阿礼命は、朝廷に奉仕した猿女君稗田(さるめのきみひえだ)一族の居住地で知られる。天皇は、阿礼が記憶力や理解力に加え、学芸話術の才にも秀でていたのをお褒めになったといわれている。そのため、賣太神社は学問の神・知恵の神として信仰が厚く、毎年八月一六日は童話の神としての「阿礼祭」がおこなわれる。
 昭和五(1930)年、当時の奈良県立図書館長であった仲川明氏らが提唱し、全国童話連盟の人たちにより始められた祭りである。
 当日は、日本最古の書物「古事記」の語り部であった阿礼の遺徳をしのび、太鼓や鐘、鉦鼓とともに神前で「稗田舞(ひえだまい)」が奉納され、続いて地元の女の子たちが浴衣と花笠姿で「阿礼さま踊り」を披露する。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/6/13


達磨図 Daruma-zu 

Jp

 達磨図(だるまず)は、山梨県甲州市塩山の向嶽寺(こうがくじ)が所有する水墨画である。国宝に指定されている。
 達磨とは仏教の禅宗の開祖・達磨大師(382~532)の事で、中国に仏教をもたらし、日本にも大きな影響を及ぼしたとされる。
 向嶽寺の達磨図は、朱衣をまとい岩の上で座禅を組む姿が描かれており、「朱達磨」とも、「八方にらみの達磨」とも呼ばれている。
 宋画の影響を受けた鎌倉時代の日本人画家の筆になる作品とされ、達磨の衣などに彩色があるが、水墨画の筆法で描かれている。
 建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、朗然居士(ろうねんこじ)のために書いたという賛が入っており、朗然居士とは、執権・北条時宗と推察されている。
 達磨図は、日本最古級の達磨像であり、日本水墨画史の冒頭に位置する、貴重な絵画である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/5/22


洲本城(三熊城) Sumoto-jou(Mikuma-jou) 

Jp

 兵庫県洲本市の「洲本城(すもとじょう)」は、大永六(1526)年に安宅治興が三熊山に築城した。
 天正九(1581)年、清康に受け継がれていた頃に、織田信長の命による淡路討伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城した。天正一〇(1582)年に仙石秀久が入り、天正一三(1585)年には脇坂安治が城主となる。その際、大修築が行われた。慶長一四(1609)年に安治は伊予大洲へと移封となり、慶長一五(1610)年に池田忠雄が六万三千石で入封した。一時廃城となり忠雄は由良成山城に居城する事になる。そして城は阿波徳島の蜂須賀至鎮の所領となる。寛永一二(1635)年、交通の便の悪かった由良城から拠点を洲本城へ移した。四年をかけて城下町ごとの移転だった為、「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。城代は稲田氏が代々務めた。
 現在、昭和三(1928)年に築造された模擬天守があり、江戸時代のものを復元したものではないが、模擬天守としては日本最古のものである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/5/12


足利学校 Ashikaga-gakkou 

Jp

 足利学校(あしかががっこう)は、栃木県足利市にある国内唯一、日本最古の学校である。
 創設時期に諸説はあるが、平安時代(794~1185)初期、または鎌倉時代(1185~1333)とされており、室町時代(1336~1573)から戦国時代(1467~1573)にかけて、関東における最高学府であったとされる。
 天文年間(1532~1555)には、約3000名ほどの学徒をかかえ、フランシスコ・ザビエルにより「日本国の中で最も大きく、最も有名な板東の大学」として世界に紹介されたという。
 江戸時代(1603~1867)末期にその役割を終了し、明治五(1872)年をもって廃校になった。
 約5500坪もの敷地に、入徳門・学校門・杏壇門の三門と孔子廟・方丈などの建物が佇んでいるといわれる。 
 昭和五七(1982)年になって、足利市が「史跡足利学校跡保存整備事業」に着手し復元され、平成二(1990)年に、江戸中期の姿に甦ったという。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します

keywords :