NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/7


彦一こま Hikoichi-koma 

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 熊本県八代地方に伝わる「彦一こま(ひこいちこま)」は、縁起玩具として知られている。
 戦後の昭和二二(1947)年、初代・井芹真彦(いせりまさひこ)が、八代地方に伝わる「彦一とんち話」にでてくる狸からヒントを得て創作されたものである。狸の人形が、四つのこまに分解するという民芸品である。
 肥後の八代城下町に住んでいた頓知者の彦一は、とんちでお殿様をからかったり、狸狐をたぶらかしたりしていた。奇才ぶりを発揮していた彦一に、さすがの狸も彦一に会ってからは手も足も出ず、ついにとんちに負けた狸は彦一の家来となって従順したという話が伝えられている。
 もともとはスイカ、トマト、大根、柿などの小さな果物のこまを作っていたが、これらを組み合わせようという発想から出来上がったのがはじまりである。
 狸、おてもやん、亀などの人形があり、見た目は普通の人形に見えるが、いくつかのこまが合体して形がつくられ、すべての部品が手作りであるのが彦一こまの特徴である。
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2008/1/24


肥後鐔 Higo-tsuba 

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 「肥後鐔(ひごつば)」とは、江戸時代に肥後の国、熊本県八代市で作られた刀の鐔である。
 熊本の金工芸では「肥後象がん」が知られているが、この象がんの技術を発展させるきっかけとなったのが、刀の鐔をはじめとした刀装金具の制作だった。
 鐔とは、刀剣の柄(つか)と刀身との境に挟み、柄を握る手を防御するものである。板状につくられており、鉄製のものがほとんどである。
 刀剣と同じ、砂鉄を原料とした良質の鋼材である玉鋼を鍛錬し、鉄の色や形、象眼透かし彫りが施され、実用性を重視しつつ品格のある工芸品となっている。
 肥後国細川藩・細川忠利(ほそかわただとし)の父である忠興(ただおき)が優秀な職人を集めて指導し、制作を奨励したのが始まりだといわれ、特に優れた職人たちは「肥後金工」と呼ばれ、全国的にも知られていた。
 現在も細川忠興が暮らしていた八代市で、肥後鐔を作り続ける刀匠により、伝統が受け継がれている。
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肥後三郎弓 Higo-saburou-yumi 

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 肥後三郎弓(ひごさぶろうゆみ)は、名人松永重児によって作られた、薩摩弓の強さと京弓のしなやかさの、両方の特徴を合わせ持つ、美しい弓である。
 重児氏は七歳から弓作りを始め、一六歳で薩摩弓の研究のために鹿児島へ修行に出向いた。芦北白石の球磨川沿岸が竹と櫨(はぜ)の産地だということを知り、後にその地に移住して弓作りに情熱を傾けたという。
 鹿の皮を煮詰めて作った「ニベ」という接着剤で、竹と櫨の木を何重かに交互に重ね合わせて芯を作り、さらに両側から竹を張り合わせて原型が作られる。使用される竹と櫨は球磨川沿岸の厳選されたもののみを、二〇年もの間寝かせてから加工するという。
 時間を惜しまず、手間も惜しまず、職人の手で心を込めてゆっくりと制作された肥後三郎弓は、国内外の弓道家などに高い評価を得ているという。
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高田焼 Kouda-yaki 

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 高田焼(こうだやき)は別名・八代焼(やつしろやき)とも呼ばれ、熊本県八代市に四〇〇年以上伝わる焼物である。
 陶工・尊楷(そんかい)は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した折に連れてきた、数多くの優れた技術者のひとりである。一度本国へ戻り、高麗焼の技法を身につけた尊楷は、慶長七(1602)年、現在の福岡県北九州市にあたる豊前小倉の藩主・細川忠興に招かれ、上野(あがの)の窯を築いたと言われている。
 その後、細川藩の肥後転封に伴って、尊楷は息子達と共に八代郡高田郷奈良木村に窯を開き、それが後に高田焼と呼ばれるようになったという。
 素地が完全に乾く前に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込む。そして余分な土を削り落とした後に透明な釉薬をかける、白土象嵌(ぞうがん)と呼ばれる特殊な技法が特徴的である。
 高麗の伝統を日本の今に伝える、美しく貴重な焼物である。
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肥後てまり Higo-temari Higo Temari

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 熊本県に伝わるてまり唄「あんたがたどこさ」を生んだのは、まさにこの「肥後てまり(ひごてまり)」である。
 鮮やかな色彩と幾何学模様が美しい肥後てまりは、江戸時代、各藩の城勤めの奥女中たちが手慰みで作り始めたのがはじまりで、その後各地に伝わったものとされる。
 代々肥後の女性に受け継がれてきた肥後てまりは、明治の中頃からのゴムまりの普及で次第に姿を消していったが、昭和四三(1968)年に肥後てまり同好会が発足し、技術が本格的に伝承されるようになった。
 肥後てまりの芯は、斜めに切ったへちまを乾燥させたものを使用する。線で包み、弾力をだして糸で巻き、球の形に仕上げる。フランス刺繍の糸を使用しているため、てまりの配色も素晴らしく、デザインも豊富である。
 昔、熊本市に流れる坪井川両岸の船着き場を「船場(せんば)」と呼んでいた。てまり唄ができた頃は、清流の中に小エビも群れ、狸がいた「船場山」周辺は、林や竹薮がうっそうと茂っていたといわれている。
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肥後まり Higo-mari 

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 「肥後まり(ひごまり)」は、熊本県熊本市に伝わる郷土玩具である。
 江戸時代中期、木綿が一般庶民の手に届くようになり、手まりは女子の玩具として、全国の主な城下町で作られた。特にこの熊本で生産が盛んになり、お正月の玩具として、また雛祭りの飾りとして欠かすことのできないものとなった。
 もみ殼を芯にして、草木染の細めの木綿糸で球をつくり、その上から今度は大きめのかけ糸で模様をつくる。素朴で自然な風合いの「肥後まり」は、美しい配色と手触りのよさが人気となり、丁寧な手仕事によって伝統を守り続けている。
 明治時代になるとゴムマリがつくられ、一時廃れたが、まりの生産は細々と続けられた。帯、麻の葉、椿、三角づくし、角花火、重ね三角、風ぐるま、熨斗、連角、重ね菱、春雨、四国まり、秋桜など、呼び名も美しい一三種類の模様があり、上品な仕上がりとなっている。 
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肥後こま Higo-koma 

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 熊本県熊本市の「肥後こま(ひごこま)」は、鮮やかな色が特長の郷土玩具である。
 肥後こまの色は五色あり、頭の部分に筆で、赤・黄・緑・黒と華麗な色付けをし、外側は必ず白い木地のままにしておくのが特徴である。赤は心臓、黄は肝臓、緑はすい臓、黒は腎臓、そして白は肺というように、それぞれが身体の五臓にたとえられ、健康長寿への願いが込められている。
 江戸時代は武家の子弟の遊びであったが、明治時代に入り庶民の間に広がり、子どもの玩具、土産物として親しまれるようになった。
 こまになる材料は、伐採後五年から一〇年乾燥させた椿やコヤス、サルスベリ等が使われている。
 肥後こまの種類には、トンボ、チョンカケ、ヒネリ、坊主、唐人、出ベソ、二段、ドンベン、ダルマ、タッツケ、マンジュウ、コショウ、ニシキの一三種類がある。その中でも特別な演技目的があるチョンカケなどには、ツバキ等の重くて堅い木が使用される。チョンカケごまとは、肥後こまの中でも代表的なもので、紐を使って空中で回すものである。
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2007/12/10


小倉城 Kokura-jou 

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 小倉城(こくらじょう)は、福岡県北九州市小倉北区にあった城である。
 慶長七(1602)年、古城跡に細川忠興(ほそかわただおき)が築城を始め、七年かけて完成させた。
 寛永九(1632)年、細川家が肥後国に移ると、小笠原忠真(おがさわらただざね)が小倉城に入り、以後、小倉藩藩主の居城となった。
 天守閣は五層で、一から四層までは壁が白く、四層には屋根のひさしがなく、五層は黒く塗られ、四層より大きく造られた。石垣は野面積みで、足立山から切り出された自然石が使われたという。
 現在の天守閣は昭和に復元されたもので、内部には民芸資料館や出陣前夜の作戦会議の風景、乗って楽しめる大名かごなどがある。
 周辺は勝山公園となっており、庭園、松本清張記念館、リバーウォークなどの施設が連なる。
 小倉城は、今では周辺の住民の憩いの場となっている城跡である。
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