NIPPON Kichi - 日本吉

記事数14件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/7/17


一遍 Ippen 

Jp

 一遍(いっぺん)は、鎌倉時代中期の僧。時宗の開祖。
 延応元(1239)年、伊予国(現・愛媛県)に誕生。10才で出家。法然の孫弟子にあたる聖達に師事。還俗し武士となり、再度出家し、専修念仏の生活へ。3年後、「十一不二」(全ての人が必ず極楽往生できるの意)を感得。
 その後、家族を連れて遊行の旅へ出る。念仏札や踊り念仏など、独特な布教活動が流行り、一躍カリスマの人となる。日本浄土教の系譜において、一際異質な存在と呼ばれる所以である。
 「信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できる」という絶対他力が時宗の教理である。大勢の念仏行者を率いた遊行は困難を極め、徐々に縮小し、他宗派に浸食された。しかし、一遍の高潔な人格と庶民教化への姿勢は、時代を超えて評価されている。1940年に国家より証誠大師号を贈られた。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/4/11


法然 Hounen 

Jp

 法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶。浄土宗の開祖。
 長承二(1133)年、美作国久米(現・岡山県)に誕生。
 9歳の頃、押領使だった父が殺され、住職だった叔父・観覚のもとに身を寄せ、仏教を体得。6年後、単身比叡山へ。源光・皇円・叡空などの師匠に才能を絶賛される。黒谷青竜寺への隠遁を許され、修行を積む。
 43歳の頃、唐の善導大師の『観経疏』によって、「阿弥陀如来の誓い=本願念仏」を辿り着き、承安五(1175)年に、当時としては革新的で独自性に満ちた教説を持つ、浄土宗を開いた。
 碩学の僧、聴衆300人を集め、浄土法門を論じ合った「大原問答」が有名。65歳で著した『選択本願念仏集』は、現在でも経典と同様の扱いで読み継がれている。
 晩年は、激しい弾圧、流罪などに見舞われた。80歳で往生。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




天海 Tenkai 

Jp

 天海(てんかい)は江戸時代初期、天台宗の僧。
 天文五(1536)年、会津(現・福島県)生まれ。11歳で出家し、18歳の頃に比叡山に入る。華厳、唯識、禅、儒学や易教、国学を修めた。
 慶長一三(1608)年頃に、徳川家康の知遇を得る。家康の参謀、朝廷との交渉役として活躍。仙波(埼玉県川越市)の北院(喜多院)や江戸崎(茨城県那珂町)の不動院の住職を兼任し、延暦寺や日光山の整備・再興にも従事した。
 仏法と王法の合一を説いた「山王一実神道」の奥義を、天海は家康に伝授する。家康の死後、東照大権現を贈号して、江戸から日光への遷葬を指揮した。遂に家康を日本の守護神に祀りあげた。
 その後も、東叡山・寛永寺の創建や都市計画を指導、江戸鎮護を構想し続けた。108歳で入滅。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/7


道元 Dougen Dogen

Jp En

 道元(どうげん)は曹洞宗の開祖。道元禅師と呼ばれる。
 正治二(1200)年、京都生まれ。一三歳で比叡山に昇り、翌年に出家。天台教学や禅を学ぶ。
 「正法」を求め、中国へ渡る。宝慶元(1225)年、天童山で如浄禅師と出会い、法を相承。「只管打坐(しかんたざ)」というひたすら坐禅に打ち込む修行が特徴。
 帰国後、建仁寺に住み、直ちに『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著した。約八年間、宇治の興聖寺(こうしょうじ)で禅の布教に専念した。
 越前に移り、大仏寺(現・永平寺)を開き、弟子の育成に力を注いだ。優れた人材を輩出し、日本各地に曹洞禅(そうとうぜん)を広めた。
 代表的な著作『正法眼蔵』は、九〇余卷にも及び、悟りへ至る道が記された書として、語り継がれ、研究され続けている。
 建長五(1253)年、五四歳で死去。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/11


親鸞 Shinran Shinran

Jp En

 親鸞(しんらん)は、鎌倉時代初期の僧。浄土真宗の開祖。
 承安三(1173)年、京都・日野に誕生。九歳から二九歳まで、比叡山にて堂僧として修行を積む。その後、浄土宗開祖・法然の門弟となり、「他力念仏」の道を極めた。
 専修念仏の弾圧により、法然・親鸞ら八名が流罪となる。法然と生き別れした親鸞は、越後で俗名を名乗って暮らした。
 赦免の後、関東の常陸(現・茨城県)に移り、法然の教えを土台に、約二〇年間に及ぶ伝道布教を行った。親鸞は権力を持たずに、非僧非俗の立場を貫いた。
 帰郷し、主著『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)を初め、多くの書物を仕上げた。浄土真宗の核が完成し、様々な継承・発展を遂げた。口承の書として、『歎異抄』が有名である。
 弘長ニ(1262)年、九〇歳で往生。没後に皇室から見真大師の諡号を贈られる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/5


西行 Saigyou Saigyo

Jp En

 平安末期から鎌倉時代初期に活躍した大歌人である西行(さいぎょう)は、宮廷ではなく、山里などの僻地を好み、花鳥風月を愛でながら、生命の歌を詠んだ。
 元永元(1118)年に、武士の家系に誕生。一八歳で兵衛尉(皇室の警護兵)になり、鳥羽上皇に仕えた。文武両道で容姿端麗、政界にその名を轟かせたが、世の無常を感じ、二三歳で出家した。「西行」を法号とする。
 大寺院、特定の宗派には属さず、山里の庵に籠もって、和歌を通して悟りを求めた。郊外の小倉山(嵯峨)や鞍馬山、秘境霊場の奈良・吉野山、真言霊場・高野山などに庵を結んだ。四国巡礼を経て、再び高野山、伊勢に入り、最後は河内弘川寺(大阪府河南町)に辿り着き、この地で入寂した。
 『新古今和歌集』には最多の九四首が入選。『山家集』『山家心中集』『聞書集』などを残した。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

Jp En

 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




日蓮 Nichiren Nichiren

Jp En

 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。
 貞応元(1222)年、安房国(千葉県)に誕生。一二歳で天台宗の山岳霊場・清澄寺に入り、道善房を師として、四年後に出家。
 その後、比叡山を拠点に、京都や奈良の諸寺、四天王寺、高野山に遊学。念仏、禅、真言を経て、仏教の真髄を「妙法蓮華経(法華経)」に見出す。
 建長五(1253)年、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、清澄寺で立宗宣言し、名を日蓮と改める。
 他宗批判を目的とした『立正安国論』を著し、幕府や僧からの反発を招く。生涯、四度の法難をくぐり抜けた。
 晩年は、甲斐国(山梨県)の身延に隠棲し、信仰指導を続けた。『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。他に、「大曼陀羅本尊」を完成させた。
 武蔵国(東京都)にて、六一歳で死去。皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号(しごう)が贈られた。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数14件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter