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2008/7/28


黄檗宗崇福寺 Oubakusyuu-Soufuku-ji 

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 長崎県長崎市にある黄檗宗崇福寺(おうばくしゅうそうふくじ)は黄檗宗では日本で最古の寺である。
 寺の起源は寛永六(1629)年、長崎を中心に貿易業を営んでいた中国福建省出身の華僑の人々が明の国の僧超然(ちょうねん)を招き建立したものである。
 崇福寺は唐様式であるためその門からして朱塗りの竜宮門である。この門をくぐると同じく朱塗りの第一峰門がある。この門と本堂である大雄宝殿は国宝に指定され、竜宮門である三門も国の重要文化財に指定されている。その他、護法堂(ごほうどう)、媽姐堂(まどそう)、鐘鼓楼(しょうこうろう)、関羽像(かんうぞう)など唐様式の伽藍は見るだけで華やかであり、また文化財の宝庫ともいえる。
 毎年7月の中国孟蘭盆会(ちゅうごくうらぼんかい)には日本に定住している多くの中国の人々が全国から訪れ、先祖の供養を行うことでも有名である。
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2008/7/15


紙本著色即非画像 Shihontyakusyoku-sokuhi-gazou 

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 福岡県指定有形文化財となっている「紙本著色即非画像(しほんちゃくしょくそくひがぞう)」は、北九州市の福聚寺(ふくじゅじ)にあったものである。
 即非とは、京都万福寺を開いた明僧・隠元が、明より招き寄せた黄檗(おうばく)僧である。長崎の崇福寺に入り、書に優れた僧として名高く、隠元、木庵と並んで黄檗の三筆「隠・木・即」と呼ばれていた。
 寛文三(1663)年、初代小倉藩主・小笠原忠真(おがさわらただざね)に請われ、寛文五(1665)年に福聚寺を開いた。
 紙本著色即非画像は、寛文一一(1671)年に描かれた大幅と、寛文八(1668)年につくられた小幅の二幅からなる。
 この作品は、画家の喜多元規(きたげんき)の中期の作品である。もっとも有名な黄檗肖像画家で、顔の痘痕(あばた)や髪の毛の一本一本まで詳細に描き込まれ、写実性の高い内容となっている。
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2008/5/26


三鷹市 禅林寺 Mitaka-shi Zenrin-ji 

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 東京都三鷹市下連雀にある禅林寺(ぜんりんじ)は禅宗のひとつである黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院である。
 江戸時代初期に起きた明暦の大火は、江戸の大半を焼失するほどの大火災で、住処を失った人々は各地に移住させられたという。この時、神田連雀町より当地に開拓農民として移り住んだ人々が、浄土宗の寺院として創建したのが禅林寺のはじまりといわれている。苦労した当時の町民達の心の支えとして、崇敬されたという。
 元禄一三(1700)年の台風で倒壊したこの寺を、黄檗宗の僧・百拙元養(ひゃくせつげんよう)が再興し、名前を禅林寺と改めた。
 境内には森鴎外や太宰治の墓があることでも知られている。太宰治の命日に当たる六月一九日には、亡くなる直前の作品「桜桃」の名にちなんだ桜桃忌(おうとうき)と呼ばれる太宰を偲ぶ会が寺で行われ、多くのファンが訪れるという。
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2007/10/31


石峰寺五百羅漢 Sekihouji Gohyakurakan 

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 石峰寺(せきほうじ)は、正徳三(1713)年、黄檗宗(おうばくしゅう)を開いた隠元の孫弟子に当たる、六世・千呆禅師(せんがいぜんし)が創立した寺である。
 本堂裏の山中には、江戸時代の画家である伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が、晩年に隠棲者として過ごしたこの寺で下絵を描き、石工に彫らせた五百羅漢がある。
 五百羅漢の「羅漢」とは、釈迦の弟子のことで、優秀な弟子五百人という意味である。この五百羅漢は、釈迦誕生から涅槃(ねはん)、すなわち死に至るまでの場面構成となっている。
 本堂の脇に羅漢道があり、すぐ右手に伊藤若冲の墓と、書画に秀でた貫名海屋(ぬきなかいおく)の筆塚がある。
 羅漢山は明治以降荒廃していたが、当時の住職・龍潭(りゅうたん)和尚の篤志により、草を払い、一つ一つの石仏を見られるように整備された。
 若冲の度量が広い筆法で下絵を描かれた石仏は、長年の風雨で丸みを帯びて苔むし、表情や姿態に一段と趣きを深めている。
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2007/6/1


護国山 東光寺 Gokokusan-toukou-ji Gokokuzan Tokoji Temple

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 東光寺は山号を護国山といい、毛利家3代藩主毛利吉就が、萩出身の名僧慧極を開山として、元禄四(1691)年に創建した。黄檗宗の寺院で、大照院とともに毛利家の菩提寺となっている。
 二階建二重門の三門は、別名を解脱門ともいい、文化九(1812) 年に10代藩主斉煕が寄進した。屋根は入母屋造り本瓦葺きで、中央には避雷のための露盤付き宝珠が置かれている。釘をいっさい使わない、組み込み式の欅の素木造りである。門の二階には毘盧遮那仏、十八羅漢などが安置されている。全体の構造は、ほぼ純粋な唐様であり、江戸時代後期の地方寺院の三門の特徴を伝えている。
 寺の建物は、黄檗伽藍様式で伽藍の配置は龍の形を現している。
 また殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基など幕末遺臣の慰霊碑の他に寺宝類も多く、長州藩御用絵師の雲谷派の絵画や県指定有形文化財の木額、柱聯、傍牌などがある。
 大照院と同時に行われる万灯会には、その幻想的な世界を楽しみに、毎年たくさんの人々が訪れている。
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2007/4/19


寶林寺 Hourin-ji Horinji Temple

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 寶林寺(宝林寺、ほうりんじ)は、静岡県浜松市細江町中川にある黄檗宗(おうばくしゅう)の禅寺である。本尊は、釈迦如来とされる。
 寛文4(1664)年、黄檗宗開祖隠元禅師と共に来朝した明国の僧・独湛禅師が、旗本の近藤登之助の尊崇を得て、近藤家の菩提寺として開創された寺院である。
 創建当時は黄檗禅の専門道場として栄え、七堂伽藍も整い、5万坪を超える敷地に20棟余りの諸堂が建ち並んでいた。
 しかし明治になると近藤家の庇護を失い、廃仏毀釈の波に飲込まれて多くの堂が倒壊した。
 寛文7(1667)年竣工の仏殿、正徳6(1716)年竣工の方丈は、黄檗宗伝来初期の中国明朝風様式を現代に伝える、大変貴重な建物として、国の重要文化財に指定されている。
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2007/3/5


長崎 興福寺 Nagasaki Koufuku-ji 

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 長崎市街を見下ろす風頭山の山麓に寺院が並列する寺町通り。そのなかほどに、広いゆったりとした南方風の境内をもつ興福寺がある雄大な朱色の山門により「あか寺」として市民から親しまれ、長崎を訪れる多くの人々も立ち寄る。
 興福寺は、我が国最初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖の隠元禅師が、中国より初めて日本に渡海され住持し、眼鏡橋を架けた黙子如定(もくすにょじょう)禅師、近世漢画の祖逸然(いつねん)禅師など、中国高僧も住持した。
 本堂は中国工匠による純粋の中国建築で、精緻な彫刻、華麗な彩色に氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井などが珍しく、国指定重要文化財となっている。
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2007/1/7


萬福寺 Manpukuji Manpukuji Temple

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 京都府宇治市にある萬福寺は、1654年、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の崇敬を得て1661年に開創された中国風の寺院。卍字くずしのデザインによる高欄、黄壁天井とよばれるアーチ型天井などがある。
 日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つで、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など黄檗宗の大本山である。
 創建当時そのままに残っていることが特徴で、建物23棟、回廊、額など多数が国の重要文化財に指定されている。
 黄檗僧たちが日本に与えた影響は大きく、千葉県八万石の新田開拓、日本初の公共図書館事業、岩国の錦帯橋(アーチ型の橋)建設指導など、社会事業に貢献した。
 また、今日安置されている22の仏像は、それまでの日本の仏像とはかなり違いがあり、これを境に日本全体の仏像容姿がおおきく変わり、異国的な魅力の要素がふんだんに取り入れられた。
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