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2007/7/9


オムサロ台地 竪穴群 Omusaro-daiti Tateana-gun Pit Dwellings on the Omusaro Plateau

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 オムサロ台地竪穴群(おむさろだいちたてあなぐん)は、北海道紋別市の中心から約7km北西の海岸近くにある小高い丘にある遺跡。
 遺跡は、渚滑川と興部町のオムサロ沼の間の丘の上に約1kmに渡り、208個余りの先住民の竪穴住居跡が続く。
 今から約1万年前以上の縄文早期、続縄文、それにオホーツク文化と呼ばれる北海道特有の大陸系民族の文化、擦文(さつもん)、アイヌと、1万年もの間途切れることなく、北海道の住民の生活の跡を残している。
 遺跡の中でも見晴らしのよい台地には遺跡公園が作られ、1千年前の擦文時代の様子や、竪穴住居、高床倉が復元され、アイヌの人々が好んで食用したとされるオオウバユリやエゾエンゴサク、ギョウジャニンニクなどの植物が植えられている。
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2007/5/31


津軽 福島城 Tsugaru Fukushima-jo Tsugaru-Fukushima Castle

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 約65万平方メートルの外郭と一辺約200mの内郭からなる近世以前では東北最大の城。
 発掘調査により、竪穴住居跡、外堀、内堀、土塁跡、門祉や柵柱列が発見され、古代から中世にわたる遺跡であると推定され、従来は、中世十三湊を支配し権勢を誇っていた安東(安藤)氏代々の居城であると伝えられて来たが、1992年の十三湊発掘調査の結果、堅固な土塁と大規模な掘に囲まれた本格的な城郭施設である事がわかった。
 また通説に反し、中世の遺物は全く出土せず、11世紀の土器が出土したことなどから、福島城は11世紀の城であった可能性が高く、内郭は兵士が集合したり、何らかの宗教的な儀式を行う場所であった、可能性が高いとされている。
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2007/2/19


三春城 Miharu-jyo Miharu Castle

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 三春城は、福島県田村郡三春町にあった城である。
 三春城は、鎌倉〜南北朝時代にかけて、田村氏の田村義顕が大志多山に築いたと言われる。
 やがて、田村氏は強豪に臣従するようになったが、天正18(1590)年の奥羽仕置により、伊達政宗に従い仙台へ去った。
 その後は蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明などの大名の所領となったり、天領になったりした。
 正保2(1645)年、秋田俊季が5万5千石で入封し、以後明治維新まで秋田氏が続いた。
 明治4(1871)年、廃藩置県により廃城となる。
 現在は公園となっており、桜の名所としても知られている。城跡近くには公共機関が集まり、三春町の中枢地域をなしている。
 三春城は、歴史に翻弄された小勢力の悲哀を感じさせる城である。
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2007/2/16


山形 松山城 Yamagata Matsuyama-jyo Yamagata Matsuyama Castle

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 山形の松山城は、山形県酒田市新屋敷にあった城である。
 松山城は出羽山地西麓の段丘上に位置する平城で、江戸後期に築城された城郭である。
 正保四(1647)年、酒井家の三男忠恒が中山2万石を分地され、中山陣所を居館とした。
 安永八(1779)年、三代・忠休の若年寄としての長年の功績が認められ、5千石の加増と築城の許可がなされ、天明元(1781)年、築城に着手し、7年後に松山城が完成した。
 戊辰戦争では幕軍に付き、明治元(1867)年、降伏・開城した。以後、廃城となる。
 現在は、松山歴史公園となっている。園内のあちこちに城の面影が残り、「多聞楼」とも呼ばれる大手門は県指定文化財である。
 山形の松山城は、江戸の文化を偲ばせる、近世城郭である。
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2007/2/14


岡崎城址 Okazaki-jyoushi Remains of Okazaki Castle

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 愛知県岡崎市にある城址。
 岡崎県は、15世紀、大草の城主西郷頼嗣が、南進する松平氏に備え、築城したことが始まりとされている。
 その後、1524年松平清康(徳川家康の祖父)が譲り受け、その6年後、現在の場所に城を移した。
 この城で家康は生まれ、ここを拠点にし、江戸幕府を開くまでになるのである。
 明治時代には「取り壊し」となったが、その後昭和34年に岡崎の象徴として市民の強い要望で天守閣を復元した。
 名称は「岡崎公園」となり、、春になると2500本の桜が一斉に花咲く。「さくら100選」にも選ばれている。
 またこの地には、岡崎四郎が築城されたとされる平安期の岡崎城址もあり、本丸があった場所は現在では「無量寺」となっている。
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2007/2/12


鶴見古墳 Tsurumi-kofun Tsurumi Ruins

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 国指定史跡「川部・高森古墳群」(宇佐風土記の丘の古墳群)は、6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基で構成される。それぞれの前方後円墳は地形的には独立した場所に営まれ、その方向もバラバラである。前方後円墳以外の墳墓は耕作などによって墳丘を失い、現状では墓と認識できないものが多いが、前方後円墳を中心に、このように多数の周溝墓が集中する遺跡は大分県内ではここだけ。九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎県の西都原古墳群(約320基)に次ぐ。
 「鶴見古墳」は、赤塚古墳に始まる川部・高森古墳群の中で、最後に造られた前方後円墳で、6世紀の中頃に築造された。この古墳は、赤塚古墳の被葬者から代々にわたって宇佐地方を治めた首長の系列を伝える最後の古墳。また、古墳時代後期の葬送の典型的な一例として重要な位置を占めている。
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2007/1/31


旧大乗院庭園 Kyu-daijyouin-teien Old Daijoin Garden

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 奈良市にある大乗院の庭園跡。
大乗院は南都七大寺の一つ、興福寺の門跡寺院として寛治元(1087)年に興福寺の北方に建立。治承四(1180)年、平重衡の奈良攻めよって焼失し、現在の場所に再興された。
 宝徳三(1451)年に再度焼失するが大乗院門跡尋尊により復興、この時庭園を作ったのが善阿弥であり、南都随一の名園として江戸末期まで残った。
 明治期の廃仏毀釈で消滅、跡地は明治四十二(1909)年、奈良ホテルとして再開された。
 現在、善阿弥の手による庭園の復興が行なわれており、庭園南部の「名勝大乗院庭園文化館」からその一部を見ることが出来る。
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2007/1/30


石舞台古墳 Ishibutai-kofun Ishibutai Tumulus

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 奈良県明日香村にある「石舞台古墳」。巨石30個を積み上げて作られた石室古墳だ。
 6世紀の築造で、規模は日本最大級を誇る。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。使われている石の総重量は77トンにもおよぶ。
 蘇我馬子の墓であったとする説が有力。盛土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する怒りからという説もある。
 昭和八(1993)年と昭和十(1935)年に京都帝国大学(現京都大学)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査を行った。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まったという。
 石舞台古墳は、明日香地域の観光シンボルとして訪れる人たちに親しまれている。昼間は公開され、石の下に入ることが出来るという。
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