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2008/9/11


佛山寺 Bussan-ji 

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 大分県由布院の佛山寺(ぶっさんじ)は、明治の廃仏毀釈が行われるまでは宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)またの名を六所宮(ろくしょぐう)と一体になって栄えた古刹である。
 本尊は由布岳の観音菩薩。かつて湖であった湯布院を盆地に変えたと伝えられる宇奈岐日女と習合していた。
 寺伝によると康保年間(964〜968年)、聖空上人の開山と云われ、当時の堂宇は由布岳の中腹にあり天台宗であった。その後、江戸時代に臨済宗となって現在の地に移転した。
 全盛時には10ヶ所の末寺を有した湯布院を代表する中心的寺院で、今も境内には青面金剛塔や金光明王塔が竹林や大杉の合間に建ち、山門、本堂、庫裡がすべて落ち着いた雰囲気を保っている。平成六(1994)年の火災で本堂を焼失したが、再建され現在に至る。
 また、500メートル程離れた金鱗湖に浮かぶ鳥居はこの佛山寺にあったもので、廃仏毀釈に伴い天祖神社付近の湖面に移されたものである。
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2007/10/31


安芸郡山城 Aki-kooriyama-jyou Aki Koriyama Castle Ruins

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 安芸郡山城(吉田郡山城)は、広島県安芸高田市吉田町にあった城である。
 建武三(1336)年、吉田荘の地頭となった毛利時親が、郡山南東の一支尾根に築城した。以来、戦国時代の元就までは、この城を居城とした。
 天文一〇(1541)年、吉田郡山城の戦いでは、尼子晴久率いる2万の軍に攻められるが、これの撃退に成功している。
 天正一七(1589)年、毛利氏は広島城へその居城を移し、その後、元和年間の一国一城令により廃城となった。
 現在、城の破却で遺構はほとんど壊されているが、郡山全山に多数(約130)の曲輪(くるわ)が今も残り、この城の規模や構造が容易に推定できる。
 安芸郡山城は、郡山全体を城郭化した大規模な山城であった。
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一関城 Ichinoseki-jyou Ichinoseki Castle Ruins

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 天正年間(1573〜1591)末期、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が滅んだ後、一関は豊臣家臣の大名・木村氏を経て伊達氏が領有した。
 江戸幕府の開府の後は、慶長九(1604)年に伊達政宗が叔父である留守政景を一関に移し、さらに寛文年間(1661〜1672)には、政宗の10男・宗勝が入ったが、伊達騒動により宗勝は土佐に配流となった。天和二(1682)年、田村建顕が岩沼から移封となり、以後11代続いて明治を迎えた。
 本丸は千畳敷という標高約90メートル、100メートル×50メートルの長方形である。本丸と同一レベルに続く丘陵に空堀が1カ所認められ、本丸以外は適度な落差で階段状に各郭が配されていたと思われる。
 千畳敷北東に虎口があり、南東には若干の高さの方形があって矢倉などの施設が想像され、西には小山があり脇に田村神社が奉られている。
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2007/10/18


胆沢城 Isawa-jyou 

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 胆沢城は、平安時代はじめの延暦二一(802)年、坂上田村麻呂によって胆沢の地に造られた古代城柵(じょうさく)である。
 大同三(808)年には鎮守府が国府多賀城から胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立。10世紀の後半ごろまでの150年間ほど機能していた。
 高さ約3.9メートル、一辺675メートルの築地(ついじ)といわれる土で固めた塀とその内と外に掘られた幅3〜5メートル 、深さ1〜1.5メートルの溝で方形に囲まれていた。
 全体の面積はおよそ46万平方メートル、(東京ドーム9つ分)、その内部は中央南寄りに一辺90メートル四方の塀で区画された政庁域、そのわきに官衙(かんが)や厨(くりや)などが広がっていた。
 大正一一(1922)年に国の指定史跡となった。
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2007/10/12


高天神城 Takatenjin-jyou Takatenjin Castle Ruins

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 高天神城(たかてんじんじょう)は、静岡県掛川市にあった山城。国指定史跡となっている。
 築城時期は諸説あり定かではないが、16世紀初頭、駿河の守護・今川氏が遠江の斯波氏への対抗のために築城したと伝えられている。
 戦国期には「高天神を制するものは遠州を制す」といわれた要衝地であった。
 永禄一二(1569)年、今川氏が衰えると、徳川勢が占領し、小笠原長忠が城主となった。
 天正二(1574)年、武田勝頼の大攻勢により落城、そして天正九(1581)年、徳川家康が奪回に成功するが、以後この地域の拠点を横須賀城に移したため高天神城は廃城となった。
 現在、城址は良く整備されている。
 高天神城は、武田氏と徳川氏が覇権を争った激戦場である。
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2007/8/24


熊野奥照神社 Kumano-okuteru-jinja 

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 熊野奥照神社(くまのおくてるじんじゃ)は、当初、現在の津軽半島の小泊にあたる奥尾崎に立てられたらが、延暦七(788)年、後の弘前市となる扇野庄に移築された。
 大同二(807)年、坂上田村麻呂が、蝦夷征伐にあたり勝利を祈願した神社といわれている。
 現在の本殿は、慶長一八(1613)年に二代藩主・津軽信枚が再建した。
 簡素な造りではあるが、室町から鎌倉時代にかけての建築様式が随所に見られ、屋根の懸魚(げぎょ)や桁隠(けたかくし)の彫刻等には桃山時代と見られる珍しい建築様式も取り入れられるなど、幅広い年代の技を見ることができる。
 地方色が少ない点において資料的価値も高く、国重要文化財に指定されている。
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2007/8/17


猿沢池 Sarusawa-ike Sarusawa Pond

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 奈良市、奈良公園内に位置する周囲360メートルの池。
周辺の柳や興福寺五重塔を水面に移す風景は美しく、奈良八景の一つに数えられる。
 興福寺の放生池として造られた由来を持つ。「放生」とは捕らえた生物を解き放つ事により殺生を戒める儀式であり、猿沢池では毎年4月17日に池に魚を放流する「放生会」が行なわれている。
 中秋の名月の日に、奈良時代に帝の寵愛が衰えた事を嘆き、釆女が身を投げたとの伝説を偲ぶ「采女祭」が催されている。平安の衣装をまとい、雅楽を奏で花扇を奉納する雅やかな行事は市民を楽しませている。
 池端の石碑に記された「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」の七不思議を持ち、現在でも水は澄み、蛙や藻も住まず生えないと言う不思議を水面に湛えた池である。
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2007/8/10


岩手 桜山神社 Iwate sakurayama-jinjya 

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 岩手県盛岡市内丸にある桜山神社。もともとは盛岡城の三の丸にあり、盛岡藩の総鎮守として篤く信仰された神社である。
 創建は江戸時代の寛延二(1749)年。盛岡藩の8代藩主・南部利視が初代藩主の没後百五十年にあたることから盛岡城内の淡路丸に勧請したのがはじまりだ。
 明治維新の際、明治四(1871)年に廃藩置県により盛岡城は廃城。それに伴い、桜山神社も遷座を余儀なくされ、妙泉寺山に場所を移したが、第二次世界大戦後、再建された盛岡城内に戻ってきた。
 現在祀られているのは初代藩主だけでなく、藩祖・光行、2代藩主・利重、11代藩主・利敬の4人。南部藩の守り神として今も盛岡を見守りつづけている。
 神宝の南北朝初期国長作とされる刀は国指定の重要文化財。毎年5月25〜27日には例大祭が行われ、武者行列やさんさ踊りが賑やかに執り行われる。
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