NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/14


金沢 野村家 Kanazawa Nomura-ke 

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 金沢の野村家(のむらけ)は、石川県金沢市長町にある建築物である。
 天正一一(1583)年、野村伝兵衛信貞は、金沢城に入場した藩祖・前田利家の直臣として従い、以後、野村家は、明治三(1970)年の廃藩まで12代に渡って1000坪の屋敷を拝領した。
 明治の武家制度の解体で、屋敷は取り壊され、菜園になってしまったが、その後、加賀・大聖寺藩・橋立の北前船の船主・久保彦兵衛の豪邸の一部をこの地に移築して、現在に至る。
 野村家は、代々御馬廻組組頭(おうままわりぐみくみがしら)や奉行職を歴任してきた加賀藩の重臣であり、格式を重んじた様式を見学できる。
 金沢の野村家は、大総檜の格天井やギヤマン入りの障子戸、狩野派の襖絵などが見事な武家屋敷跡である。
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越前大野 旧内山家 Echizen-oono Kyuu-Uchiyama-ke 

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 越前大野の旧内山家(きゅううちやまけ)は、福井県大野市城町にある建築物である。
 幕末に大野藩の藩政改革に尽力した家老・内山七郎右衛門良休(うちやましちろううえもんりょうきゅう)は、藩営の商店を開業したり、銅山経営で手腕を発揮して多額の借金に苦しんでいた藩財政を立て直した人物である。
 旧内山家は、良休と弟の隆佐良隆の屋敷を復元したもので、母屋は明治一五(1882)年ごろ建築された梁間4間、桁行7間の平入り2階建てとなっており、屋根は現在は瓦葺だが、元は板葺であったとされる。
 天井の空間を広く使うための2階の舟底天井や、井戸のある台所などが設けられた造りが興味深く、他に数奇屋風書院の離れや衣装蔵、米蔵、味噌蔵と広い庭が存在する。
 越前大野の旧内山家は、当時の武士の暮らしが伺える、貴重な武家屋敷である。
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2007/11/9


佐原 伊能忠敬旧宅 Sawara InouTadataka-kyuutaku 

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 佐原の伊能忠敬旧宅(さわらのいのうただたかきゅうたく)は、千葉県香取市佐原にある建築物である。屋敷内の土蔵も含めて、国の史跡に指定されている。
 伊能忠敬は、隠居後五〇才を過ぎてから江戸に出て幕府天文方高橋至時の門に入り、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学等を学び、幕府の命令で五五~七一歳まで、一七年間全国各地を測量し、大日本沿海輿地全図を完成させた。
 旧宅は、伊能忠敬が三〇年余り過ごした言われる家で、商家造りの瓦葺き平屋建て、表の店舗と奥の母屋からなり、店舗は醸造業の倉庫を改造したもので、土間・帳場・居室・台所等が存在する。
 母屋は、寛政五(1793)年、忠敬が四八才の時に自身の設計により作ったものとされる。
 伊能忠敬旧宅は、五〇を過ぎてから新しい道を切り開いた努力家・忠敬の苦労と人柄が偲ばれる建築物である。
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津和野 森鴎外旧宅 Tuwano Moriougai-kyuutaku 

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 津和野の森鴎外旧宅(もりおうがいきゅうたく)は、島根県鹿足郡津和野町町田にある建築物である。国の史跡に指定されている。
 文久二(1862)年、森鴎外こと森林太郎はこの家で生まれ、明治五(1872)年に一〇歳で上京するまでここで過ごした。
 森鴎外は、明治から大正時代に活躍した文学者で、軍医総監陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭などを務めながら、小説「舞姫」や「雁」といった作品を発表した。
 旧宅は、木造平屋建て、瓦葺きの簡素な造りで、四畳半の鴎外の勉強部屋や、藩医の家らしく調剤室も残っている。
 また、隣接して森鴎外記念館が開館しており、鴎外の生涯と功績を顕彰している。
 森鴎外旧宅は、文豪の少年時代を暮らしぶりが伺える史跡である。
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2007/9/13


旧岩田家住宅 Kyuu-iwata-ke-juutaku 

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 旧岩田家住宅(きゅういわたけじゅうたく)は、仲町伝統的建造物群保存地区にある建物の1つで、寛政時代から文化年間に建てられたものと予測されている。
 建てられて間もなく、家を移動した後、増改築等が行われていると推測されているが、これらはあまり大掛かりでなく、柱や小屋組などの主な構造や、藁葺屋根等は当時のまま残っている。
 当時の武士の生活を知る上で重要な建築のひとつとされており、広間、座敷、奥座敷、居間などで現在も当時の雰囲気を見ることができる。
 旧武家屋敷街の保存に積極的であった故・岩田夏城氏の遺志として昭和五六年八月に弘前市に寄付されたものである。
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2007/9/10


知覧武家屋敷庭園 Chiran-bukeyashiki-teien Old Samurai Gardens in Chiran

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 知覧武家屋敷庭園(ちらんぶけやしきていえん)は、鹿児島県南九州市知覧町(旧・川辺郡知覧町)にある江戸時代の武家屋敷群で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 約260年余り前、知覧領主・島津久峰時代の武士小路区割の名残り。現在、武家屋敷通りと屋敷庭園が保存されている。
 7軒の屋敷の庭園が見学でき、うち6軒は枯山水式庭園、1軒は築山池泉式庭園となっている。
 薩摩の小京都と呼ばれるにふさわしい佇まいを保ち、武家屋敷群は「人をもって城となす」という薩摩藩の気風を推し進めた外城のひとつとされる。
 各屋敷が塁のように防衛障壁となるよう工夫されており、端正にして優美、虚飾に走らず簡素を旨とした、薩摩武士の知性と上品さが伺える。
 知覧武家屋敷庭園群は、江戸の昔を思い起こさせる街並みである。
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2007/8/10


中江藤樹邸跡(至徳堂) Nakae-Touju-tei-ato(Shitoku-dou) 

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 近江出身の儒学者中江藤樹(とうじゅ)は後に「近江聖人」といわれるようになった江戸時代初期の陽明学者である。
 近江の農民中江吉次の長男として生まれた藤樹は、伯耆(ほうき)米子藩主加藤家の百五十石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴いた。その後藩主加藤貞泰の転封で祖父母とともに大州に移住。一五歳で家督相続し、独学で朱子学を学んだ。二七歳の時、脱藩し近江へ。以後門弟の教育に努め、四一歳で亡くなるまで知行合一(ちこうごういつ、陽明学の実践重視の教え)の実践を深めた。
 宇和島中学校大洲分校に学んだ窪田哲二郎氏からの寄付金を基金として、有馬純次校長の構想により、藤樹の遺徳を伝えまた学ぶ「学舎」として、百石取の武士の住居を模した「至徳堂」を建設。落成は昭和一四年一一月一八日。昭和二八年には愛媛県指定史跡に選定された。
 大洲城三の丸の跡に建てられた県立大洲高校の敷地内にある。
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2007/8/2


齋理の雛まつり Sairi-no-hina-matsuri The Japanese Doll Festival at Sairi Residence

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 齋理の雛まつり(さいりのひなまつり)は、宮城県丸森町の齋理屋敷で、毎年の二月上旬から三月下旬にかけて催される、雛人形の展示企画だ。
 丸森町のシンボルでもある齋理屋敷は、この地で七代続いた豪商、齋藤家の蔵屋敷であり、当主が代々齋藤理助を名乗っていたことから、齋理屋敷と呼ばれるようになった。
 今は郷土館となっているこの屋敷の居宅にある二十畳もの大広間で、齋藤家ゆかりの雛人形や、豪華な道具類が展示される。
 享保雛や古今雛、嫁いで来たお嫁さんが抱いていたという市松人形など、齋藤家七代の長い繁栄の歴史を豪華な雛人形を通して見ることが出来る。
 また、期間中は手作りの雛人形教室など各種イベントも開催され、見るだけではない楽しさも味わえる。
 今のものとは面立ちも雰囲気も異なるお雛様が長い眠りから目覚め、一堂に揃う様はまさに息を呑む荘厳さであり、豪商の館にふさわしい雛まつりとして、訪れるものを楽しませてくれる。
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