NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/12/7


川尻筆 Kawajiri-fude 

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 天保九(1838)年、広島県川尻の菊谷三蔵(きくたにさんぞう)が、現在の兵庫県にあたる摂州の有馬から筆を仕入れ、寺子屋などで販売したのが「川尻筆(かわじりふで)」の始まりである。
 その後、筆を仕入れるだけでなく、この地で筆の製造を始めることを村人に呼びかけ、安政六(1859)年に初めて川尻筆がつくられた。川尻の上野八重吉(うえのやえきち)が有馬や松江から職人を呼び、初めての試みとして高品質の「ねりまぜ製法」、大量生産の「ぼんまぜ製法」を扱い、川尻筆の名は次第に全国に広まった。
 明治時代における学制の制定から筆の需要が高まり、さらに川尻筆墨株式会社の設立もあって、技術や経営でも発展し続けた。
 第二次大戦中に多くの職人を失ったうえ、戦後の学制の変更で学校習字が廃止され、生産が衰退したが、昭和四二(1967)年に「川尻毛筆事業共同組合」が設立、続いて昭和四六(1971)年には学校習字が復活した。平成三(1991)年に県の伝統的工芸品の指定を受け、川尻筆の伝統は今なお大事に受け継がれている。
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2007/11/29


のぼりざる Nobori-zaru Climbing Monkey

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 のぼりざるは宮崎県延岡に伝わる郷土玩具で、子供の立身出世、無病息災、五穀豊穣を願い、端午の節句に鯉のぼりと一緒に上げられる。風を受けると竿を伝って上へ昇る。
 今から200年ほど前、延岡内藤藩の武士の妻たちの手内職としてつくられるようになったと伝えられるが、その由来はいくつかあり、神話時代の猿田彦の乱暴狼藉を戒めるためとか、延岡藩の旧藩主有馬公が戦の時、背に負った馬印に猿を描き勝利したためとかいわれている。
 人形は木材で猿の型を作り、そこに和紙を何重にも張り重ね、背を切り開き木材の型を取り出し、背を縫い合わせ色付けをする。その猿に金筋入りの烏帽子をかぶらせ小鼓と御幣を持たせた、歌舞伎の前に行う祝儀の舞のいでたち風に仕上げられる。そして、菖蒲の絵の描かれたのぼりにつるされるのである。
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2007/8/30


赤坂人形 Akasaka-ningyou Akasaka Dolls

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 赤坂人形は、福岡県筑後市赤坂にて作られる土人形である。福岡県特産民芸品に指定されている。
 赤坂土人形の歴史については、どの文献にも何も伝えられておらず、いつからこの地で作られたかは不明である。
 おそらくは徳川中期の頃、有馬藩の御用窯として発達した際、その余技として製作されたものであろうといわれている。
 「てってぽっぽ」(不器用な人という意味)として当時の子供達に親しまれた鳩笛が一番有名で、そのほか福神、天神、猿など、十数種の土型がある。
 粗い素焼きに胡粉(貝殻を焼いて作った白色の顔料)をかけ、彩色しただけの土人形で、素朴な童心にあふれている。
 赤坂人形は、飾り気のない単純な純真さを持つ、筑後を代表する懐かしい民芸品である。
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2007/8/10


中江藤樹邸跡(至徳堂) Nakae-Touju-tei-ato(Shitoku-dou) 

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 近江出身の儒学者中江藤樹(とうじゅ)は後に「近江聖人」といわれるようになった江戸時代初期の陽明学者である。
 近江の農民中江吉次の長男として生まれた藤樹は、伯耆(ほうき)米子藩主加藤家の百五十石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴いた。その後藩主加藤貞泰の転封で祖父母とともに大州に移住。一五歳で家督相続し、独学で朱子学を学んだ。二七歳の時、脱藩し近江へ。以後門弟の教育に努め、四一歳で亡くなるまで知行合一(ちこうごういつ、陽明学の実践重視の教え)の実践を深めた。
 宇和島中学校大洲分校に学んだ窪田哲二郎氏からの寄付金を基金として、有馬純次校長の構想により、藤樹の遺徳を伝えまた学ぶ「学舎」として、百石取の武士の住居を模した「至徳堂」を建設。落成は昭和一四年一一月一八日。昭和二八年には愛媛県指定史跡に選定された。
 大洲城三の丸の跡に建てられた県立大洲高校の敷地内にある。
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2007/4/17


水天宮 Suitenguu Suitengu Shrine

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 水天宮は、東京都中央区日本橋蛎殻町にある神社である。祭神は、天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼とされる。
 久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主により崇敬されていた。
 文政元(1818)年、久留米藩主有馬頼徳が江戸・三田の藩江戸屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。
 藩の屋敷内にあったため一般の参拝が難しかったが、人気に応え、毎月5の日に一般人にも開放され、「情け有馬の水天宮」という言葉も生まれた。
 明治四(1871)年、有馬家の屋敷の移転とともに赤坂に遷座し、翌年、有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町に移転した。
 江戸時代より安産・子授けの神として、厚い信仰を集めている。
 水天宮は、江戸の昔から庶民に親しまれている神社である。
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2007/3/5


原城跡 Harajyou-seki 

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 有明海の岬を利用したこの城は、日野江城の支城として明応5 (1496) 年に築かれた。
 キリシタン大名有馬晴信の頃は日暮し城と讃えら、日が暮れるまで見ても飽きないほど美しかったが、有馬氏が日向へ移されると廃城となり、松倉重政は島原に城を築いた。 
 徳川幕府治政下では最大の反乱だった島原の乱、寛永14(1637)年の一揆軍が城にたてこもり、3万7千人は悲惨な最期を遂げた。
 現在は公園になっている。島原の乱で殉教したキリシタンたちの追悼の意を込められているかのような大きな白い十字架や、200年以上経過している天草四郎の墓石や天草四郎像など、天草四郎に関するものが残っている。
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ねはん像 Nehan-zou Statue of the Reclining Buddha

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 ねはん像のある江東寺は、永禄元 (1558) 年に有馬氏の菩提寺として創建されましたが、島原城の完成に伴って島原に移され、松倉家の菩提寺となりました。現在の寺域は寛政2年に再興されたもので、再建を祝って奉納された刺繍絵の「釈迦ねはん図」(島原市指定文化財)に因み、昭和32年にねはん像が建立された。
 大きさにして全身8.6メートル、高さ2.12メートル。ねはんとは、煩悩の火を焼きつくして智恵が完成した悟りの境地を指す言葉であるが、釈迦の入滅を表現する言葉としても用いられている。
 このねはん像は、釈迦が故郷に近いクシナーラの沙羅双樹の下、臨終の間際まで弟子たちに懇切な説法を続けている姿を模したもの。足の裏には、大法輪の相(仏足石)が刻まれ、頭部には、信者による写経一万巻が納められている。
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2007/2/23


久留米絣 Kurume-gasuri Kurume Ikat

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 久留米絣は、福岡県久留米市にて織られる織物である。
 久留米絣は、有馬藩の城下町に住んでいた少女・井上伝によって、1800年頃考え出された。
 幼い頃から機織りが好きだった伝は、衣服についていた白い斑点から、掠れ模様の織り方を発見し、これを加寿利(かすり)と名付けた。これが今の「絣」の名前の由来である。
 絣は美しく耐久性のある衣料として全国的に有名となり、絣織は久留米を中心とする南筑地方に確固たる基礎を確立した。
 絣は先染め織物の一種であり、糸の段階で括りによる絣糸を作って染色し、織り上げるため、デザインに深みがでる。
 久留米絣は素朴な織物で、着物、小物、インテリア用品などに幅広く活用されている。
 1957年、重要無形文化財に指定される。
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