NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/10


知覧武家屋敷庭園 Chiran-bukeyashiki-teien Old Samurai Gardens in Chiran

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 知覧武家屋敷庭園(ちらんぶけやしきていえん)は、鹿児島県南九州市知覧町(旧・川辺郡知覧町)にある江戸時代の武家屋敷群で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 約260年余り前、知覧領主・島津久峰時代の武士小路区割の名残り。現在、武家屋敷通りと屋敷庭園が保存されている。
 7軒の屋敷の庭園が見学でき、うち6軒は枯山水式庭園、1軒は築山池泉式庭園となっている。
 薩摩の小京都と呼ばれるにふさわしい佇まいを保ち、武家屋敷群は「人をもって城となす」という薩摩藩の気風を推し進めた外城のひとつとされる。
 各屋敷が塁のように防衛障壁となるよう工夫されており、端正にして優美、虚飾に走らず簡素を旨とした、薩摩武士の知性と上品さが伺える。
 知覧武家屋敷庭園群は、江戸の昔を思い起こさせる街並みである。
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2007/8/7


岡崎市 随念寺 Okazaki-shi Zuinen-ji Zuinenji Temple

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 岡崎市の随念寺(ずいねんじ)は、愛知県岡崎市門前町にある浄土宗の寺である。本尊は、阿弥陀如来、千手観世音菩薩。三河三十三観音霊場第2番札所とされる。
 永禄五(1562)年、徳川家康が、祖父・松平清康と清康の妹である大叔母・久子の菩提を弔うために創建された。
 久子は、家康が生母の於大と生別して以来、家康を長い間養育した人である。
 東海道を見下ろす丘陵に建てられた一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の防衛拠点としての名残りを今も多く残している。
 山門は四脚門(しきゃくもん)で、山門の先には美しい白壁が続いており、一間一戸の楼門が見える。
 岡崎市の随念寺は、長い歴史を誇る、松平・徳川家と家康ゆかりの寺である。
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2007/6/26


松前藩戸切地陣屋跡 Matsumae-han-hekirichi-jinya-ato 

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 松前藩戸切地(へきりち)陣屋跡は、江戸時代に蝦夷地の防衛を強化する目的で、幕府が安政二(1855)年に松前藩に命じて作らせた陣屋の跡地である。北海道北斗市に所在する。
 この陣屋は、四陵の星型をしており、東側の一陵に砲台六門を擁していた。明治元(1868)年には函館戦争の旧幕府軍の攻撃に遭い、松前藩兵の手により自焼、放棄されている。その後昭和五四年から国や道の保護を受けて環境保護を行い、平成十三年に再建。現在では市民の憩いの場として親しまれている。
 陣屋に続く長い道路には桜が植えられており、春の満開時には桜のトンネルとしてたくさんの人々の目を楽しませている。
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2007/6/21


岡崎宿 Okazaki-juku Okazaki-juku

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 岡崎宿(おかざきじゅく)は、東海道五十三次、三八番目の宿場。現在の愛知県岡崎市である。
 五万石の城下町であり、宿場町としての規模も大きく、矢作川と乙川が合流する地域だったため「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」という唄が歌われていたほど水運の要の町であった。
 江戸時代には、徳川家康の生誕の地でもあったため別格の扱いを受け、代々、大名の中でも特別な役職を担う譜代大名を置くことでもそれが伺える。
 天正一八(1590)年に岡崎城主となった田中吉政は岡崎の郊外にあった東海道を城下町の中心を通るように変更。城の防衛のため、「二十七曲」と言われる多くの曲がり角がある道路整備を十年かかって造り上げた。
 この二十七曲は現在にも岡崎の町に残っており、石碑にはこの曲がどのように市内を通っているのかを見ることができる。
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2007/6/13


天ヶ城 Amaga-jyou Amagajo Castle

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 宮崎県宮崎市高岡町にある城跡。
 関が原の戦いで西軍についた島津家が東軍の徳川家康に敗れると、同じ九州を拠点とする伊東家が、島津家の佐土原城へ兵を送り戦いを挑んできた。
 島津家は何とかこの勢力を阻止したが、国境の防衛を強化することを考え、1600年、標高120mの小高い山に天ヶ城を建てた。しかし、1615年の一国一城令により廃城になった。
 城跡は、天ヶ城公園となり、桜の名所として知られる。樹齢40年のソメイヨシノが1200本植えられており、千本桜として春に一斉に花を咲かせる。また、50000本のつつじが桜の後に見事な紅の花を咲かせる。
 敷地内には、歴史資料館を兼ねた天守閣が建てられ、観光名所となっている。資料館の展望台からは、大淀川や宮崎平野が一望でき、短命に終わった城に思いを馳せることができる。
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2007/5/31


霞城公園 Kajyou-kouen Kaijo Park

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 城下町である、山形県山形市にある「山形城」跡地にある公園。
 近年になり、城の復元に力を入れている。「山形市制100周年」には「大手門」が復元され、年に2回公開され、人気となっている。
 1356年に斯波兼頼が楯を築いたのが、最山形城の最初といわれる。その後、子孫の最上義光が1592年から約13年をかけ、改築を手がけ、現在の山形城の原型を作った。
 57万石の領地を持つようになった後、12人の城主が入部した。
 当時の建造物としては、石垣や堀が残っており、その面影を残す。
 また済生館と呼ばれる、城跡とは趣の違う洋風の建物などがある。
 現在は「桜の名所」としても知られシーズンには花見客などで賑わい、人々に親しまれている公園である。
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津軽 福島城 Tsugaru Fukushima-jo Tsugaru-Fukushima Castle

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 約65万平方メートルの外郭と一辺約200mの内郭からなる近世以前では東北最大の城。
 発掘調査により、竪穴住居跡、外堀、内堀、土塁跡、門祉や柵柱列が発見され、古代から中世にわたる遺跡であると推定され、従来は、中世十三湊を支配し権勢を誇っていた安東(安藤)氏代々の居城であると伝えられて来たが、1992年の十三湊発掘調査の結果、堅固な土塁と大規模な掘に囲まれた本格的な城郭施設である事がわかった。
 また通説に反し、中世の遺物は全く出土せず、11世紀の土器が出土したことなどから、福島城は11世紀の城であった可能性が高く、内郭は兵士が集合したり、何らかの宗教的な儀式を行う場所であった、可能性が高いとされている。
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2007/3/28


山中城跡 Yamanaka-jyou-ato 

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 山中城跡は静岡県三島市山中新田、箱根山中に築かれた城址である。
 永禄年間(1558〜70)に、北条氏康が小田原城の防衛のために築いた山城。西の東海道に沿う要地として置かれ、「箱根十城」の一つに数えられた。
 天正十八(1590)年、小田原の役で豊臣秀吉軍七万人の軍勢に対し、四千人で篭城を行なうが、僅か半日で落城したと伝えられる。
 石を使わない土だけの山城は、日本でも珍しい造り。本丸、二の丸、三の丸を要し、本丸と二の丸の間には薬研堀が掘られる。
 堀の下には格子状に築かれた土塁が築かれ、北条流築城術の特徴を示している。
 現在は公園として整備され、丁寧に再現された城址はかつての戦国の山城の姿を今に残している。
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