NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/10


丹波山 ささら獅子 Tanba-yama Sasara-shishi 

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 ささら獅子は、山梨県の丹波山村の七月の祇園祭で演じられる獅子舞である。
 丹波山村は昔から江戸と甲斐、今の山梨県を結ぶ宿場町であり、 林業の町であった。ささら獅子は350年以上も続く祇園祭で神輿と供に五穀豊饒を祈願して演じられてきたものである。古い書見によると宝暦九(1759)年にはすでに広まっていたと書かれている。
 ささら獅子の構成は、ささらを一対ずつ持った花笠役を四人四方に配置し、その中で太夫(黒毛)・小太夫(茶)・雌獅子(朱)三頭の獅子が舞う角兵衛流である。舞は大刀使いと獅子による白刃の舞が中心である。その舞の後に神輿が宮入する。
 尚、ささらとは田植のときに使っていた竹で出来た道具のことで、獅子舞の時に使われる楽器のことである。
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2007/12/20


八重垣神社祇園祭 Yaegakijinja-gionmatsuri 

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 八重垣神社(やえがきじんじゃ)は、千葉県匝瑳市八日市場にある神社である。祭神は健速須佐雄命(たけはやすさのおのかみ)、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、大名牟遲神(おおなむぢのかみ)、豊宇氣比賣神(とようけひめのかみ)、武御名方神(たけみなかたのかみ)。
 延元三(1338)年に勧請され、創建されたと伝わっている。
 八重垣神社祇園祭(ぎおんまつり)は、毎年八月四日・五日に行われている祭りである。元禄一〇(1697)年頃に始まったとされ、神社を中心に10町内から20数基の神輿が繰り出される。
 笛・太鼓のお囃子に合わせ神輿が担がれ、「あんりゃぁどした」という威勢のいいかけ声で練り歩く。この際、全国でも珍しい女性だけが担ぐ女神輿も見物である。
 祭りのクライマックスは神輿連合渡御で、集まった20基以上の神輿と囃子連が、延々と連なって市街を練り歩く。
 八重垣神社祇園祭は、八日市場を彩る勇壮な夏祭りである。
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2007/12/14


市来の祇園祭 Ichiki-no-gion-matsuri 

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 鹿児島県いちき串木野市の市来地区でおこなわれる市来の祇園祭(いちきのぎおんまつり)は、毎年七月下旬の土曜日に開催される。
 祇園祭は、文化九(1812)年の八坂神社建立の際、湊町が商港や宿場町として栄えた頃に京都の祇園祭をまねておこなわれたのが始まりである。囃子山は、若松宇吉が京都で習ってきたものだといわれている。
 勇壮活発な男山は、栄町の「加藤山」と天神町の「天神山」、京の優雅で華麗な女山は、祇園町の「道風山」と土橋町の「龍宮山」である。四つの集落による合計四台の山車が、太鼓と金を叩きながら街中を練り進む姿が見物となっている。
 市来の祇園山は県内一の大きさを誇り、正面二・五メートル、奥行き三・五メートル、高さは二階建てで五メートルもある。
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2007/12/3


おぎおんさあ・かごしま夏祭り Ogionsaa Kagoshima-natsu-matsuri 

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 おぎおんさあ・かごしま夏祭りは鹿児島の夏の風物詩として有名な、鹿児島市天文館地区を中心に繰り広げられる壮大な夏祭りである。
 おぎおんさあ(祇園祭)の由来は平安時代、貞観一一(869)年に日本全国に疫病が蔓延したときに遡る。時の朝廷は疫病の原因は八坂神社の御祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであると、その霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)を全国で行った。これが祇園祭の始まりといわれている。江戸時代に入ると庶民の祭りとして定着していった。
 祭りは市を上げて行われ、八坂神社のご神幸行列や夏祭大ハンヤ等など色々なイベントが開かれている。
 近年は三味線、太鼓などによる祇園ばやしも復活し、多くの人で賑わいをみせている。
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2007/10/31


神泉苑 Shinsen-en 

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 延暦一三(794)年、桓武天皇によって平安京が造営された際、大内裏の南にあった湿地帯を利用してつくられたのが神泉苑(しんせんえん)のはじまりである。常に清らかな神泉が湧き出ていることからその名が付いたといわれる。
 神泉苑は霊場としても知られており、天長元(824)年、干ばつのため淳和天皇の勅命によって弘法大師が雨乞いの祈祷をしたといわれる。この時天竺、すなわちインドから勧請したのが祈雨の神様である善女龍王(ぜんにょりゅうおう)で、それ以降善女龍王は神泉苑に住むようになり、善女龍王を祀るお堂が建てられた。
 また貞観五(863)年に疫病が流行り、神泉苑にて多くの御霊を鎮めるため御霊会が行われた。全国の国の数である六六本の鉾を立て、厄払いをしたのが、のちの京都三大祭のひとつである祇園祭のはじまりであるとされる。
 法成就池(ほうじょうじゅいけ)に架かる朱塗りの橋は法成橋という。願い事を一つだけ心に念じながら橋を渡り、善女龍王にお参りすると願望が叶うといわれている。
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2007/10/4


田名部まつり Tanabe-matsuri Tanabu Festival

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 下北地方最大の夏祭りが「田名部(たなぶ)まつり」である。江戸時代に下北の総鎮守だった田名部神社の例大祭で、青森県の無形民族文化財に指定されている。
 祭りの起源は定かでないが、寛政五(1793)年の菅江真澄(すがえますみ)の紀行文に、すでにこの祭が記されていることから、それ以前に始まったと推測されている。かつては陰暦七月一八~二〇日に行われていたが、明治三(1870)年より現在の八月一八~二〇日となった。
 田名部五町から「ヤマ」と呼ばれる木製黒漆塗りの山車が繰り出し、むつ市内を練り歩く。ヤマは二階建てで、下の階には乗子(のりこ)と呼ばれる囃子方が乗り、上の階には御神体を乗せて運行する。京都祇園祭の流れを汲むとされる山車は絢爛豪華そのもの。
 祭りは最終日の深夜、「五車別れ」でクライマックスを迎える。五台の山車は田名部神社を後にし、目抜き通りの本町十字路に勢ぞろいする。お囃子が鳴り響く中、山車を引く若衆や見物客にたる酒が振る舞われ、来年の再会を約束してそれぞれの町内へ帰る。
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2007/8/20


上越祭り・祇園祭 Jouetsu-matsuri Gion-matsuri 

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 毎年7月23〜29日に、新潟上越市で盛大に行われる「上越祭り(じょうえつまつり)」は、長い伝統を誇る夏祭りの一つである。
 上越地方を大きく分けると春日山、そして高田、直江津と3つの地域に分ける事ができる。
 直江津の八坂神社で行われていた「祇園祭(ぎおんまつり)」の始まりは不明なものの、江戸時代に松平忠輝が高田に城を移したのを機に町や寺社も移った。しかし八坂神社だけは留まったので、高田城下へも出向いて祇園祭を行う様になったと云われている。これが現在の「上越祭り」で、期間中は祇園囃子の音と歓声が夜遅くまで続く。
 23〜26日は高田の祇園祭で「神輿奉迎」や「大民踊流し」などが行われ、26日に神輿は関川を舟で還御される。そして26〜29日は直江津の祇園祭で「大花火大会」「屋台行進」「大民踊流し」などが盛大に行われる。最終日の夜には八坂神社に集合した屋台にお饌米が積まれ、担いだ若者達が勇ましく八坂神社の参道を駆け抜けて奉納する「お饌米奉納」も行われる。
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2007/7/30


桐生八木節まつり Kiryuu-yagibushi-matsuri Kiryu Yagi-bushi Festival

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 桐生八木節まつり(きりゅうやぎぶしまつり)は、群馬県桐生市で毎年八月の第一金曜日から日曜日までの三日間に渡って開催される夏祭りだ。
 昭和三九(1964)年に商工祭や夏の祇園祭、七夕祭り、その他地域の祭礼などをまとめた形で、第一回桐生まつりとして開催したのが始まりとされる。
 その後の昭和六三(1988)年に現在の「桐生八木節まつり」に改称され、今に至っている。
 関東一の華やかさとしても知られている祭りで、期間中に催される全日本八木節競演大会には県内外から、多くの参加者が訪れ、まつりの盛り上げに一役買っている。
 その他にも、子供みこしまつりやダンス八木節、ジャンボパレードなど各種イベントが催され、三日間の夏の宴を思う存分楽しむことが出来る。
 最近では各所に設けられた櫓で、若い人たちの手により創作された思い思いの八木節の踊りが注目を浴びている。
 伝統と新しいパワーが融合した真夏の夜の宴は大きな力を秘めているようだ。
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