NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/2


阿漕塚 Akogi-duka 

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 阿漕塚(あこぎづか)は、親孝行の為に密漁を働いてしまい、処刑されてしまった平治という名の漁師を供養した塚である。
 三重県津市の岩田川の河口から南一帯の海浜は阿漕浦といわれており、古来、伊勢神宮に献上する魚を捕るための専用の場所で、禁漁区となっていた。
 その場所で、平治という名の漁師が母の病に聞くとされた「やがら」という魚を病気を治したい一心で密漁してしまう。
 かくして、その密漁は発覚し、平治は阿漕浦に沈められてしまった。以来、沖から不気味な音が聞こえるようになり、村人達は平治の霊を慰めるために塚を立てたといわれ、塚自体は天明二(1782)年に建てられたものだ。
 元々は九世紀ごろに同じく密漁をした者がいて、その名が阿漕や平治であったとされ、以降伝説として語り継がれて浄瑠璃の「阿漕平治」や、謡曲の「阿漕」になり、後々にも伝えられて塚の建立にいたったとされている。
 塚には平治の鎮魂と共に阿漕浦の平穏を求める多くの人々の祈りも込められている。
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2007/1/30


石舞台古墳 Ishibutai-kofun Ishibutai Tumulus

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 奈良県明日香村にある「石舞台古墳」。巨石30個を積み上げて作られた石室古墳だ。
 6世紀の築造で、規模は日本最大級を誇る。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。使われている石の総重量は77トンにもおよぶ。
 蘇我馬子の墓であったとする説が有力。盛土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する怒りからという説もある。
 昭和八(1993)年と昭和十(1935)年に京都帝国大学(現京都大学)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査を行った。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まったという。
 石舞台古墳は、明日香地域の観光シンボルとして訪れる人たちに親しまれている。昼間は公開され、石の下に入ることが出来るという。
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2007/1/26


堀越城 Horikoshi-jo Horikoshi Castle

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 弘前藩の基礎を築いた津軽為信(つがるためのぶ)が津軽統一の根拠地として利用し、大浦城から居城を移した文禄三(1594)年から、慶長十六(1611)年に二代藩主、津軽信枚(のぶひら)が現在の弘前城に移るまでの間、弘前藩の中心となった城。
 昭和六十(1985)年11月に国史跡指定を受け、現在は、史跡公園として整備するために、平成十(1998)年から継続して発掘調査が行われ、建物の柱のあとや、青磁・白磁、漆器などが出土している。
 現在は熊野神社の境内となり、国道7号が城を分断しており、神社の中に入り込むと、そこは主郭らしいつくりで土塁が積み上げられ、空堀の跡もよく残っており、古城という雰囲気が醸し出されている。
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