NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/22


古伊万里 Koimari 

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 古伊万里(こいまり)は、江戸時代に、現在の佐賀県西松浦郡有田町とその周辺地域で焼かれた磁器の総称である。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた李朝の陶工によって、17世紀初頭、中国明朝末の景徳鎮を模倣しながら有田で始まった磁器が初期伊万里で、有田焼とも言われる。以後、古陶磁の中でも文様が美しく、魅力的な焼き物として発展した。
 伊万里の港から全国各地、或いは遠くアジアを経てヨーロッパへ渡って行き、中でも絢爛豪華な金彩等をほどこした品は、ヨーロッパの王侯貴族に愛用された。
 後期の染付の色は濃く、さらに赤や金の絵の具を贅沢につかい、花文様などを器面いっぱいに描きこんだこの様式は、経済的に豊かであった元禄時代の気風を反映したものと考えられている。
 古伊万里は、マイセン窯等にも多大な影響を与えた、日本を代表する伝統の古陶磁器である。
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2008/3/11


天草 高浜焼 Amakusa Takahama-yaki 

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 熊本県天草地方で焼かれる陶磁器類をまとめて、天草陶磁器(あまくさとうじき)と呼ぶ。平成一五(2003)年に国の伝統的工芸品に指定された際、新たに名付けられた呼び名で、高浜焼(たかはまやき)はこれらを代表する磁器の一つ。
 宝暦一二(1762)年、上田伝五右衛門が天草西海岸に産出される純度の高い陶石を使用して磁器を作るため、肥前の陶工を招いて高浜に窯を開き、白磁の生産をしたことに始まる。安永六(1777)年、長崎奉行によりオランダ向きの焼物製作を命じられ、染付色絵の欧風皿などの生産を行い、明治三三(1900)年まで続けられたが廃窯した。昭和二七(1952)年に再興され、現在は白磁の食器類を中心に作られている。
 現代の生活様式に調和する「白く」「薄く」「透明な」をモットーに、世界に誇る天草陶石の良質の原料を生かし、洗練された高度な技を駆使して焼き継がれている。
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2007/9/4


釉裏金彩 Yuuri-kinsai Yurikinsai

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 釉裏金彩(ゆうりきんさい)は、陶芸技法の中でも最も手間のかかるものの一つである。
 磁器の素地に、九谷色絵の上絵具をかけて本焼を行い、地色を作る。その上に文様や絵柄に切った金箔を置いて焼き付け、最終的にその上から更に透明釉をかけて焼き上げる。
 そうする事で、金箔が透明な釉薬の皮膜に覆われて剥がれなくなり、また、時にいびつにも見えがちなまばゆい金の輝きが、透明釉を通すことで、落ち着いた上品なものとなる。
 金箔と釉薬だけのシンプルな組み合わせだけに、地色の配色や金箔の配置に気を配る必要があるが、細心の注意を払って完成したものは、配置した金が光の加減によって浮かび上がるような、独特の光彩をもたらしてくれる。
 陶芸に関しては中国渡来の技法がほとんどだが、この釉裏金彩は日本で生まれた技法である。まばゆい輝きも一枚の膜に包んでしまう辺りに、日本人の好む奥ゆかしさが表れているのかもしれない。
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2007/8/17


李参平碑 Risanpei-hi Monument to Ri Sampei

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 16世紀末、肥前国の戦国時代・安土桃山時代の武将・鍋島直茂が韓国出征からの帰国した際に韓国の陶工たちを日本に連れ帰ってきたという。有田陶工の祖と言われる李参平(りさんぺい)はその中の一人で、元和二(1616)年に泉山で白磁鉱を発見し、日本で初めて磁器を焼くことに成功。これが後に、古伊万里、柿右衛門、鍋島の三流を産み、有田は日本における磁器発祥地といわれるようになるのである。
 有田町大樽の陶山神社には、陶祖である李参平が祀られ、社殿うしろの蓮華石山の頂、有田の町を一望できる景勝の地に、この「李参平碑」が立っている。
 有田焼の創業300年となる大正五(1916)年に建立。以来、毎年五月四日に、この碑の前で「陶租祭」が行われている。
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2007/7/25


彩釉磁器 Saiyuu-jiki Saiyu Porcelain

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 彩釉(さいゆう)とは、焼き物を作る際、釉薬(ゆうやく)を彩ること、釉薬を使って彩色を施す技法である。彩釉磁器(さいゆうじき)は、本焼きした磁胎に色釉(いろぐすり)を施し、焼き付ける技法である。こうして焼き上げられた彩釉磁器は、色釉の持つ美しさや、濃淡の色彩の対比などの表現に大きな特色を持つ。
 彩釉磁器が中国で発達したのは14世紀の明時代以降であり、日本では江戸時代以降、有田や久谷などで彩釉磁器の作成が盛んになったとされる。
 彩釉磁器の人間国宝に三代徳田八十吉氏がいる。古陶磁の優れた表現技法を元に独自の工夫を重ね、主に色釉(いろぐすり)のみで器面を埋め、その色釉により生まれる濃淡の変化の美しさ、色のコントラストの美しさを表現する独自の様式を確立した。
 彩釉磁器は、色そのものの美しさで人を魅了する、高度な技術に裏打ちされた焼き物である。
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色鍋島 Iro-nabeshima Iro-Nabeshima (Colored Nabeshima Ceramics)

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 色鍋島(いろなべしま)は、有田焼のひとつの色絵磁器である。
 花鳥風月をモチーフに、繊細で緻密な色絵を施す色鍋島は、格調高く洗練された意匠が特徴。現在では、有田の名窯・今右衛門がその伝統と技術を継承している。
 文禄・慶長の役の際中国より連れ帰った陶工団により、日本で初めての磁器が有田で焼かれた。その後寛永年間の1640年代に中国より色絵の技術が伝わり、有田の初代今右衛門が色絵付けの磁器を作っていたとされる。その後、今右衛門は鍋島藩の藩窯となり、献上品や贈答品用の色絵磁器の仕事を担うことになる。これが色鍋島のルーツとされる。
 十代今右衛門が明治六(1874)年頃から本格的に色鍋島に取り組み、優れた赤絵の技法の確立に成功した。十三代今右衛門は現代の角度からの色鍋島に意欲を燃やし、平成元年には色絵磁器で人間国宝に認定された。
 現在も、十四代今右衛門が代々伝わる色鍋島の技を継承しながら、現代的な試みに励んでいるという。
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2007/4/16


姫谷焼色絵皿 Himetaniyaki-iroezara Himetani Ware Iro-Ezara Plate

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 伊万里、九谷焼とともに日本の初期色絵磁器として知られる姫谷焼色絵皿。江戸時代前期末から江戸時代中期初頭にかけて、陶工・市右衛門によってごく短期間に焼かれたものであり、現在は造られていない貴重な骨董品である。
 最大の特徴は、薄造りの白磁の肌に色鮮やかな色絵を、余白を残した筆致で描く瀟洒(しょうしゃ)な作風。絵柄は紅に散る紅葉や一輪の牡丹、飛雁山水など。きわめて簡素な構図で単調な筆致で描くため、モチーフの美しさが存分にきわだつ。
 こうした意匠は、「侘び」「寂び」にも通じる風情を持ち、収集家の人気を集めている。工芸品としても優れ、昭和四六年には広島県指定重要文化財に認定された。
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2007/3/22


波佐見焼 Hasami-yaki 

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 400年の伝統を誇る、長崎の伝統、波佐見焼きは、有田焼と並ぶ、いわば焼き物の元祖と言われている。
  はじまりは古く、慶長四(1599)年、波佐見町村の畑ノ原、古皿山、山似田の三箇所で連房式階段状の登窯を築いてやきものづくりを始めたのが起こりとされる。
 現在、波佐見焼きと言えば染付けと青磁が中心だったが、はじめは釉薬(ゆうやく)陶器を作っていた。その後、村内で磁器の原料が発見され、染付けと青磁に移行していった。江戸時代後期には、染付けの生産量が日本一になり、波佐見焼きの名が全国に知れ渡ることとなった。
 今日でも食器生産が盛んで、磁器製の茶碗や食器類のシェアは国内トップクラス。「用の美」をきわめた400年の技は、今なお人々の心を捉えて放さない。
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