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2007/10/17


信楽院 Shingyou-in Shingyoin Temple

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 信楽院(しんぎょういん)は、滋賀県日野町のほぼ真ん中にある浄土宗の寺で、この地方の領主であった蒲生氏(がもうし)の菩提寺。貞和五(1349)年に蒲生高秀が小御門城(こみかどじょう)に阿弥陀如来を安置する小堂を建立したのが起源で、その後、音羽城、中野城と蒲生家の本城内に移されて来たが、中野城が廃されるに際し、定秀の隠居所であった現在地に移された。
 境内はさほど広くはないが、元文四(1739)年に建てられた県指定文化財の本堂などが目立つ。寺宝に伝恵心(でんえしん)作の観音像がある。本堂の天井には、日野町出身の著名な京狩野派画家・高田敬輔により、縦横一一メートルにおよぶ荒れ狂う巨大な竜が描かれ、睨みを利かせている。
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2007/4/13


黒田英一 Kuroda Eiichi Eiichi Kuroda

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 静岡県に伝わる伝統工芸品、駿河竹千筋細工(するがたけせんすじざいく)の伝統工芸士。
 1931(昭和六)年生まれ。駿河竹千筋細工の変形曲げを得意な技法とし、86年、伝統工芸士に認定された。91年、関東通産局長賞、2001年、関東経済局長賞、伝統的工芸品振興会会長賞など多数の賞を受賞する。
 駿河竹千筋細工は江戸時代初期、駿府に隠居した徳川家康が鷹狩を行なう際の餌箱を竹で編ませたのが始まりと言われる。以後武士の内職として作られ発展、明治時代には海外にも輸出され、人気を博した。
 この道60年の経験を持ち、しなる竹を自在に形作る。完成した作品はどこに出しても氏の作品であると判る程、独特な風合いを持つと言う。
 祖父の代から受け継いだ技法に更に磨きをかけ尽力している傍ら、
 現在は後継者育成のための技術・技法の伝承方法を確立し、業界振興を試みている。
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2007/3/28


駿府城跡 Sunpu-jyou-ato 

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 駿府城跡は静岡県静岡市葵区駿府公園に建つ城址である。
 徳川家康の隠居城として有名だが、元々は応永十一(1404)年に今川範政により館が建てられたのが始まりであり、天正十三(1585)年に家康の居城として改築。
 慶長十一(1606)年、幕府開府後、大御所となった家康が移り居城とした。
 寛永十二(1635)年の火災により建物が全焼、櫓、門は再建されたが、天守閣はその後再建されることは無かった。
 現在の城址に残るのは石垣と周囲の水掘であり、小規模ながら堅固な造りは天下人家康の周到さが伝わる。
 近年、東御門と巽櫓が伝統的な工法に従い再興され、往時の繁栄が再現されている。
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2007/3/13


駿府城 Sunpu-jyou Sunpu Castle

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 駿府城は、静岡県静岡市にある。
 今川氏が築城したと推定されるが、その城は武田家や徳川家康に攻め落とされて崩壊した。
 天正13(1585)年、徳川家康が駿府城を修築した。
 慶長10(1605)年、家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に隠居した。家康が大御所として居城した駿府は、以後繁栄した。
 家康の死後は、主に駿府藩や駿府城代が管理し、明治維新により1869年、廃城となった。
 駿府城は現在、官庁や学校などの公共用地が立地し、中心地は駿府公園となっている。
 天守は現存していないが、二の丸巽櫓、東御門(櫓門)と続多聞櫓などがあり、本丸堀が復元されている。
 駿府城は、徳川家康と江戸時代を代表する城である。
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2007/2/16


向羽黒山城 Mukaihaguroyama-jyo Mukaihaguroyama Castle

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 向羽黒山城は、福島県会津美里町にあった城である。
 永禄四(1561)年、向羽黒山城は黒川城主芦名盛氏が隠居城として築城を開始し、7年の歳月をかけて完成させたという。
 この当時、芦名盛氏は会津を統一した。
 東方では天文二十(1550)年、三春城主田村隆顕と結び安積郡に進攻し、仙道地方への発言力を強め、南郷地方へ進攻した佐竹氏と次第に対峙するようになっていった。
 しかし、天正二(1574)年、嗣子盛興が死去すると、盛氏は向羽黒山城を廃城とし、黒川城に戻った。以後、芦名氏は次第に衰退し、伊達氏に滅ぼされた。
 現在、城跡のある山全体が白鳳山公園として整備されている。
 向羽黒山城は、往時の芦名氏を思い起こさせる、古城である。
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2007/2/12


旧竹林院庭園 Kyuu-chikurinin-teien 

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 延暦寺の僧侶の隠居所である里坊。邸内には主屋の南西に約3300平方メートルの庭園が広がる。
 天正年間に建てられた2棟の茶室と四阿(あずまや)は大津市の指定文化財。
 地形を巧みに利用した滝組と築山を配し、手入れの届いた木々や苔が四季を通じてしっとりとした風情を演出している。
 比叡山ふもとにある大津市坂本は、門前町として古来から大いに栄えてきた。
 歴史を今に伝える数多くの建物、遺跡が残され、一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。なかでも里坊は歴史の町・坂本ならではの町並みをつくっている。
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2007/1/22


成巽閣 Seisonkaku Seisonkaku Villa

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 文久三(1863)年の建築。兼六園の中にある。当初は巽御殿(たつみごてん)と呼ばた。
 加賀藩十三代藩主前田斉泰が母である隆子(真龍院・十二代斉広夫人)のために建てた隠居所。
 金沢城から東南の方角、つまり巽にあり、また京都の鷹司家が辰巳殿と呼ばれており、それにも習ってこの名前がついた。
 二階建てで、一階は書院造り、二階は数寄屋造りになっている。重要文化財に指定されているが、江戸時代末期の代表的な建築物である。
 建物の内部は、心配りの行き届いた優雅な空間となっている。
 壁は紙貼りとして土を使わず、階下には紅い漆を用いた。さらに雲母や金などを使い文様が描かれている
 全体的に、色彩豊かな装飾は、成巽閣の大きな特徴である。
 また、成巽閣の庭である飛鶴庭も、国の名勝と指定されている。現在は、歴史博物館となっている。
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2006/11/29


天赦園 Tensha-en Tensha-en

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 天赦園は、七代藩主、伊達宗紀(むねただ)が隠居の場所として建造した池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)庭園だ。愛媛県の宇和島に位置している。
 名前の由来は、戦国武将・伊達政宗が隠居後詠んだ漢詩「馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し 残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん」に由来しているという。
 園内には多くの藤棚があり、中でも太鼓橋式の藤棚にかかる白玉藤の美しさには目をみはる。また、伊達家の家紋「竹に雀」にちなんで様々な珍しい種類の竹が池を巡るように植栽されているのも見事だ。6月の上旬には花菖蒲が満開になり、大変な見ものとなっている。その後は菖蒲が園内を彩る。四季折々の美しさと由緒ある風情を五感で楽しめる。
 散策の合間には、書院式茶亭である「潜渕館」(せんえんかん)でひと休みするのもいい。ここは、大正11年、昭和天皇陛下が皇太子のころ、天赦園御成の際の御座所にあてられたこともあるのだという。
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